二章

 この施設は、クローンの研究所の一つだ。クローン人間を作成し、様々な実験を行う。私はその実験体の一人であり、クローンなのだ。



 私の言葉を聞いた来実の目が、大きく見開かれる。だが、その目はすぐに切なげに伏せられた。薄っすらと浮かんだ笑顔が、やけに悲しく見える。

「……去果、知らないの?」

「知らないから、聞いたのよ。私は貴女が実験体だってことは聞いてるけど、人間かクローンかは聞いてないわ」

「去果は、どっちだと思う?」

「……分からないわ。初めは、人間だと思ってたの。クローンには戸籍がないから、学校に通うなんて不可能だもの。だから、貴女は身体のどこかが悪くて、クローンの臓器提供を待ってる人間なんだと思ったわ。ピルケースの件もあったしね。でも、貴女の話を聞くうちに、もしかしたらクローンなんじゃないかって、そう思うようになったの」

「そっか」

 彼女は身体の向きを変え、柵にそっと手を添えると、俯きながら大きく息を吐いた。そして、ぱっと顔を上げる。夕焼けに照らされた横顔には、微かな笑みが浮かんでいたが、その瞳は揺れていて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 彼女はそのまま、私の方を見ずに、こう言った。

「そうだよ。私も去果と同じ、クローンだよ」

「……そうなのね」

 やはりそうか。そうじゃないかと思っていたので、さほど驚きはなかった。

 声をかけるでも手を握るでもなく、ただ黙って彼女の隣に並ぶ。

「私ね、自分がクローンだって、つい最近まで知らなかったんだ」

 来実はぽつりぽつりと、小さな声で話し始めた。

「でもね、偶然……本当に偶然、知っちゃったの。両親が話してるのを、聞いちゃって」

 彼女は微笑みながら話しているが、その唇は震えていた。その痛ましさに、胸が締め付けられる。

「その瞬間、今までの私の人生が、全て否定されたように思えた。血の繋がらない私を、本当の娘のように育ててくれた両親の優しさも愛も、嘘だったように思えた」

 そう思ってしまうのも、無理はない。クローンであるという、ただでさえ衝撃的な事実を意図せず知って、すぐに受け入れられる者がどこにいるだろうか。ましてや、彼女はまだ十七歳の女の子だというのに。

「学校に行っても、ここにいる人たちと私は、違う存在なんだって思ったら、どうしようもなくなって。それで……気付いたら、屋上のドアを壊して、フェンスの向こう側にいたの。このまま一歩踏み出せば、死ぬ。そんな状況で気付いたんだ。私は今まで真面目で良い子に生きてきたけど、自分が本当にやりたいことは、何一つできてないなって」

 以前の彼女は、真面目で大人しく、良い子だったと聞いている。きっと、円滑な人間関係を築くために、本当の自分を押し隠し、そういう子を演じていたのだろう。私はこの施設の中で、限られた人たちとしか関わりがないが、人間関係の面倒臭さは、所長を見ていれば分かる。

「その瞬間、私は目覚めたの。クローンでも人間でも、どうだって良い。私は私として、心のままに自由に生きようって決めたんだ」

 それまで暗く悲しげだった笑みが、吹っ切れたような晴れ晴れとした笑顔に変わる。

「それが、自殺未遂の真相なのね」

「うん」

 彼女は私を見て頷いた。それは、私のよく知る、いつもの来実だった。

「話してくれてありがとう、来実。でも、良かったの? 貴女、誰にも話さなかったんでしょう?」

「だって、あいつらに話しても、どうせ理解してもらえないでしょ? 私が良い子をやめて、自由に生きるようになった時も、誰一人として良い顔をしなかったから。友だちも先生も、両親でさえもね」

 一瞬だけ、彼女は寂しい目をしたが、すぐに優しい笑みを浮かべて言った。

「だけど、去果なら、バカにしないで真剣に聞いてくれると思ったんだ。だから、話したの。思った通り、やっぱり去果はちゃんと聞いてくれたね」

「他の誰でもない、貴女自身のことだもの」

 すると、彼女は驚きからか、音が聞こえるほど息を吸い込んだ。そして、嬉しそうに柔らかく微笑む。

「じゃあ、もう少しだけ、聞いてくれる?」

「勿論よ」

 そう微笑みかければ、彼女は再び話し始めた。

「自分がクローンだって知ったことを、両親に伝えたの。そしたら、何日か後に、研究所の人たちが家に来てね。クローンについて色々と解説されて、それで、これからは本社で暮らそうって言ってきたの。私の実験が失敗しちゃったから、本社の奴らは私が逃げないように、手元に置いておきたかったんだろうね。それに、急に人が変わった私に、両親も手を焼いてたから」

「実験というのは?」

「クローンであることを知らず、人間として育ったクローンはどうなるのか。それが、私の実験だよ」

 なるほど。どうりで彼女が人間かクローンか、分からなかったわけだ。

 私以外のクローンたちは皆、本社で管理されている。ここと違って厳重で、外出も脱走もできず、その中だけで一生を過ごし終えることになると、所長から聞いた。そして、私たちクローンには、戸籍がない。実験体に、そんなものは必要ないからだ。これが、クローンの現実だ。だから、普通の人間と変わらない生活を送っていた来実を、クローンだとみなせなかったのだ。

「私は嫌だって断ったの。最初はあいつらも優しく諭してきたんだけど、私がいつまでたっても頷かないから、段々と苛々し始めてね。クローンのくせにって、罵ってきたの。そこからはもう、罵詈雑言の嵐だったよ」

 自分がクローンだと知ったばかりで傷付いている、まだ十七歳の女の子に対して、何て酷い仕打ちをするのだろう。いい歳した大人がやることとは思えない。

「その時ね、ある人が提案してきたの。この施設に来ないかって」

「それって……」

「その人は、他の奴らと違った。その人だけは、私に罵声の一つも言ってこなかったの。奴らが私を見下すような目で見る中で、その人だけは、奴らの方を睨んでた。それで、思ったの。この人は、こいつらとは違う。この人の話なら、聞いても良いかもしれないって」

「……その人っていうのは、所長なの?」

 彼女は私の目をしっかりと見つめて、ゆっくりと深く頷いた。

 ここに来るのを提案したのが、所長だとは知らなかった。彼はそんなこと、一言も言っていなかった。彼女がクローンであることも聞いていなかったし、ちょっと言葉足らずなのではないか。

「それで、所長と二人で話したの。私と同い年の、クローンの女の子がいるって教えてくれてね。嬉しかったの。私と同じ人が、この世に存在することが。それが、去果だった」

「本社にも、私たちと同じクローンが大勢いるわ。それなのに、どうして私を選んだの?」

 そう尋ねると、彼女は甘い吐息を吐き出して、柵に寄りかかり頬杖をついた。

「運命だと思ったの。同い年で、同じ女の子で、同じクローンで。共通するところが、いっぱいあったから」

 来実は夕焼けを眺めながら、夢見る少女のようにうっとりと語った。

「ロマンチストだって、笑う?」

 ちらちらと、少し恥ずかしそうにこちらをうかがってくる来実が、非常に可愛らしい。

「いいえ。私も、貴女との出会いは運命だと思っているわ」

「本当?」

「本当よ。私に会いに来てくれて、ありがとう。来実」

 そう告げれば、彼女は感極まったかのように瞳を潤ませて、私に抱き着いてきた。

「私、自分がクローンだと知った時、本当に悲しくて辛くて、苦しかった。だけど……クローンじゃなきゃ、去果には出会えなかった。だから、今はね……クローンでも、そんなに悪くないなって、そう思えるの。私と出会ってくれて、ありがとう、去果」

 声は震え、時々、鼻を啜る音が聞こえてくる。私の肩に顔を埋めているため、その表情は見えないが、おそらく泣いているのだろう。

 私と出会えたことに泣いている来実が、たまらなく愛おしくて、何も言わずに、ただただ彼女を抱きしめた。背中に回された腕に、ぎゅっと力が込められた。

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