一章(六)

 美しい夕焼け空を、来実と二人、屋上から眺めていた。すると、どこからともなくギターの音色が聞こえてくる。

「ロマンチックだね。誰かが弾いてるのかな」

「所長よ。彼の趣味で特技だから。時々、こうして弾いてるの」

 こんな美しくて切ない日には、決まって感傷に浸るかのように、彼はギターを弾いていた。

「上手だね。この曲、聞いたことがあるけど、クラシックだよね?」

「愛の夢よ」

「愛の夢。去果、詳しいんだね」

「彼が必ず弾く曲だもの」

 彼は最初に必ず、愛の夢を弾く。この曲は、彼の愛する人が、一番好きな曲だと聞いた。

「そうなんだ。何かリクエストしたら、弾いてくれるかな」

「彼、クラシックしか弾かないわよ。それに、明るい曲も弾かないし」

「うーん。私、クラシックは、曲名が分からないからなあ」

 彼女は柵にもたれて顔を伏せると、そのまま目を閉じて、うっとりとギターの音色に聞き入った。そして、愛の夢が弾き終わり、次の曲が流れ始める。そこで彼女はぱっと顔を上げた。

「この曲も、聞いたことあるよ。去果、分かる?」

「……トロイメライよ」

 これは、私が一番好きな曲だ。彼はこの曲も必ず弾く。幼い頃、しょっちゅう強請っていたから、多分それを覚えてくれているのだろう。

「ねえ、去果。去果はこの施設から、あんまり出たことがないの?」

「そうよ。ここと本社と、サービスエリアくらいしか行ったことがないわね」

 年に一度、本社に行く時に、その長い道中で、サービスエリアに立ち寄る。そこでいつも、所長が飲み物やお菓子を買ってくれるのが、普通の親子みたいで好きだった。

「そっか。そうなんだね。どこか行ってみたい場所とかはないの?」

「……あるわよ」

 そこまで外の世界に憧れや執着はないが、たった一つ。たった一つだけ、どうしてもこの目で見たいものがあった。

「海を見てみたいの」

 あの日、写真で海を見たあの時から、ずっと夢見ているのだ。いつかこの目で、本物の海を見ることを。

「じゃあ、行こうよ」

「え?」

「一緒に、海を見に行こうよ」

 まるで簡単なことのように、彼女は言った。

「……どうやって?」

「バスと電車を乗り継げば、ここから二時間もかからずに行けると思うよ」

 二時間。たった二時間で、数年間憧れ続けた景色を見られるなんて。そんなこと、知らなかった。そんなに身近にあるなんて、知らなかった。だけど。

「……所長がそれを許してくれると思う?」

「外出は許してもらったよ?」

「夜の外出はそうだけど、バスや電車で行くなら、昼間でしょ? 他の職員にバレずに行くのは難しいわ。所長も流石に許してはくれないでしょう」

 そこではたと、昨晩聞きそびれた、あのことを思い出す。あの時は、楽しそうに笑う来実を見て、まだ良いかと尋ねるのをやめたが、今が、その時なのでは?

「ねえ、来実」

「なあに?」

「私、貴女に聞きたかったことがあるの」

「うん」

 昨日の話のことだと気付いたのか、彼女はしっかりと身体をこちらに向けてきた。私も同じようにして、彼女と向かい合う。私が何を聞こうとしているのか、何も知らない彼女の真剣な眼差しに、耐えられず視線が泳いだ。

「貴女は、人間なの? それとも……クローンなの?」

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