一章(五)

 次の日の夜。すっかり元気になった来実に、私は手を引かれていた。早速、外に連れ出す気だ。

「あっ、所長」

 ばったり出くわしてしまった所長に、来実は後ろめたさも何もないように、気さくに声をかけた。所長の視線が、私たちの顔から繋いだ手へと移動し、そしてまた顔へと戻る。

 彼は何と言ってくるだろう。外に出ても良いとは言っていたが、すんなりと行かせてくれるのだろうか。

「病み上がりだというのに、大人しくしていられないのか」

「はい。じっとしてるのは、性に合わないみたいです」

 彼女の明け透けとした言葉に、所長は呆れと諦めの交じった溜息を吐く。

「去果。彼女が無茶な真似をしないように、見ててやりなさい」

「え、ええ」

「気を付けて行ってきなさい」

 来実は微笑みで返し、私の手を引いて歩き出した。

 信じられない! 彼は本当に、私たちの外出を許したのだ!

 振り返れば、所長は私たちを見つめていた。懐かしそうな、悲しそうな、切ない表情を浮かべながら。



 バイクの二人乗りでやってきたのは、町の中心部へと繋がる橋だった。プールに行った時にも、通った橋だ。あの時は、スピード違反で走り抜けたが。

 来実はバイクを近くの草むらに隠すように押し込むと、くるりと身体を翻して、悪戯っ子のように微笑んでくる。

「やってみたいことがあるんだ」

 私は橋を一瞥する。橋の下は一面黒で覆われていて、何も見えない。街灯の明かりさえも届かないほど、高さがあるようだ。

「……紐無しバンジーでもするつもり?」

 それはないなと思ったが、冗談で聞いてみる。来実は呆気にとられた表情をしたが、すぐさま可笑しそうに笑い出した。

「あはは! 流石の私でも、そんな自殺行為はしないよ」

 そう笑っているが、自殺未遂の過去があるじゃないか。

「取り敢えず、真ん中まで行こう」

 私の手を握って、彼女は歩き出す。会話はなく静かで、まるで世界が私たち二人だけになってしまったようだ。

 橋の真ん中辺りで立ち止まると、彼女は繋いでいた手をぱっと離した。そして、私に微笑みかけると、車道へと跳ねるように降りて、そのまま脇目も振らずに堂々と道路を横断していく。

「何してるのよ! 危ないわよ!」

「大丈夫だよ。今まで車の一台も通らなかったでしょ? それに、もし車が来たとしても、ライトの光ですぐに分かるよ」

 彼女は車道の中心に引かれた白線のところで、足を止めた。

「これが、貴女のやってみたかったことなの?」

「違うよ。去果が来てくれなきゃ、できないの」

 届かない距離から、来実がこちらに向かって手を差し伸ばしてくる。

「だから、去果。来てくれる?」

 街灯が、まるでスポットライトのように、来実を照らしていた。私は導かれるように、歩き出す。危ないと注意したのにも関わらず、私も他を見向きもせずに、真っ直ぐに彼女の元へと進んで行った。

 差し出された手を取ろうと腕を伸ばせば、手首を掴まれ止められる。そして、その右手を、彼女は自分の腰へと添えさせた。さらに、左手は握られて、そのまま肩の高さまで持ち上げられる。そこで、気付いた。これはもしかして、御伽噺によく出てくる、舞踏会で王子様とお姫様が踊る時の姿勢では? その時、来実が私の肩に手を添えて、にこりと微笑んだ。

「踊ろう、去果」

 そして、来実は足を踏み出した。引っ張られ、彼女の足を踏みそうになってしまう。

「私、踊り方なんて知らないわよ」

「私も知らないよ。適当で良いんだよ」

 そう言って、彼女は踊り続けた。私もその動きに合わせる。くるくると回る度に、彼女の甘い香りが微かに漂ってきた。

「ふふ。道路の真ん中でね、踊ってみたかったの」

 ぎこちないワルツもどきではあるが、彼女は満足そうだった。

「去果、あのね。私、去果に会いたくて、ここに来たって、話したでしょ?」

「ええ」

「私、去果の存在に救われたの。この世界に、私は一人ぼっちなんだと思ってた。だけど、去果のことを知った時、私は一人ぼっちじゃないんだって分かって。その日から、去果は私の希望になったの。だから、去果に会えた時、本当に嬉しかったんだ。ずっとずっと、去果に会いたかったから」

 そこで来実は足を止めた。きらきらと輝く瞳が、私をじっと見つめてくる。この目を見れば分かる。この子は本当に、私に会いたくて仕方がなくて、ここに来たのだ。

「来実。私、貴女に聞きたいことがあるの」

「うん」

 彼女の言葉を聞いて、ふと思ったことがある。彼女は私とは違うと思っていたのだが、もしかしたら、彼女も……私と同じなのでは?

「貴女……」

 その時だった。彼女の横顔が、薄っすらと明るく照らされる。光の方を見れば、トラックがこちらに迫っていた。踊りに夢中になってすっかり忘れていたが、ここは道路のど真ん中だった。身体を寄せ合ったまま、彼女を連れて端へと急ぐ。もたつきながらも歩道までたどり着き、クラクションを鳴らしながら通り過ぎていくトラックを見送る。すると突然、来実が腕の中で笑い出した。それにつられるように、私も笑い出す。そのまま私たちは、しばらく笑い合った。

「去果。さっき私に聞きたいことがあるって言ってたけど、なあに?」

 落ち着いた頃、先ほどトラックに邪魔されて遮られた言葉の続きを、来実が尋ねてきた。だが、今はまだ聞かなくても良いかと思い、こう答えた。

「何でもないわ」

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