一章(四)

 翌日。来実は熱を出して、ベッドで横になっていた。

「大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ」

 来実が中々起きてこないので、部屋を訪ねれば、出てきた彼女は青白い顔で力なく微笑んだ。見るからに体調が悪そうだったので、すぐにベッドに寝かせて体温を測れば、案の定熱があったのだ。

 薬などを取りに行こうかと思った時、誰かが部屋の扉をノックした。起き上がろうとする来実を止めて、私が代わりに出る。

「去果? 何故、君が?」

 そこには所長がいた。怪訝そうな顔をされて、私もつい彼を睨んでしまう。

「何しに来たの?」

「診察以外にあるのか?」

「去果。そんなに邪険にしないで。私が呼んだんだよ」

 部屋の奥から、来実のか細い声が聞こえてくる。

「そういうことだ」

 そう言って、彼は中に入ってきた。

 所長が来実の脈と血圧を図るのを、後ろから見守る。

「風邪だな。薬を飲んで、安静にしていれば、良くなるだろう」

「ありがとうございます」

「プールに不法侵入して遊ぶから、風邪を引くんだ」

 思わず息を呑む。だが、来実は表情一つ変えずに、黙っていた。

 昨日の今日で、どうして彼がそのことを知っているのだろう。

「違ったか?」

「いいえ。耳が早いですね」

 来実は誤魔化すつもりもないのか、にこりと笑って認めた。

「田舎は情報が広まるのが早いんだ。それから、原付の二人乗りは違法だ」

 プールのことがばれていれば、当然、バイクの二人乗りもばれていた。

「ふふ。すみません」

「病人に、お説教するんじゃないわよ」

 後ろから文句を言ったが、無視される。

「屋上と、あと、地下駐車場の鍵も盗んだだろう。返しなさい」

「それはできません」

 微笑みながらも、彼女はきっぱりと断った。所長は呆れた様子で、溜息を吐く。

「来実。私は君に言ったはずだ。去果を外へ連れ出すなと」

 唐突に、私の知らない話が飛び出してくる。そんなことを、来実に言っていたのか。そして、彼女は初日からそれを破ったわけだ。

「……端から、私が命令を守るほど、従順だとは思ってなかったでしょう?」

「ああ。当然だろう? 君が何をしようと勝手だが、それに去果を巻き込むのはやめなさい」

「所長は随分と、去果を大事にしているんですね。やっぱり、娘だからですか?」

 この子は何てことを聞くのだろう。思いがけない問いに、所長だけでなく、私までもが驚いてしまった。

「来実。バカなことを聞かないで頂戴」

「バカなことじゃないよ。とても大切なことだよ」

 彼女の声色も眼差しも、真剣そのものだった。

「ねえ、所長。どうなんですか?」

 催促する来実に、所長は何と答えるのだろう?

「馬鹿馬鹿しい。くだらないことを聞くな」

 ほら、やっぱり。もしかしたら、娘だと言ってくれるのではないかと、少しでも期待した私が愚かだった。だが、対する来実は、からかうように小さな声で笑っていた。その反応の意味が分からない。

「去果。外に出るなと命令したら、君は守るか?」

 所長がおもむろに振り返って、そう尋ねてくる。来実は全く言うことを聞かないが、私であれば聞き入れると思ったのだろう。

「……ええ」

 この場を丸く収めるために頷いただけで、もう守らないし、守れないだろう。所長はそれを見透かしたように、鼻で笑った。

「守らないだろう? いや、守れない、と言った方が正しいか。君は自由を知ってしまった。命令したところで、君も来実と同じように、破って外に出るはずさ。そうだろう?」

 何も言い返せなかった。私の考えを、そのまま指摘されたからだ。

「去果。来実。危険な真似をせず、明け方までにここに戻って来るのなら、私は何も言わない。ただ、私以外の職員には、絶対に知られたり、見つかったりするんじゃないぞ。そうなったら、流石の私でも庇いきれないからな」

 私たち二人を交互に見回しながら、所長はそう言った。つまり、彼は外に出て良いと言っているのだ!

「良いんですか?」

「他の者に知られぬうちは、好きにすれば良い。見て見ぬふりをしてやるさ」

「ありがとうございます」

 立ち上がる所長の背中越しから、来実がこちらに向かって満面の笑みを浮かべているのが見えた。

「まずは風邪を治すことだな。何か食べられそうなら、お粥を作るが」

「本当ですか? 食欲はあるので、食べたいです」

「分かった」

「私も一緒に作るわ」

 二人の視線が、一斉に私に向けられる。

 お粥なんて作れないし、お菓子作りくらいしか経験がないのに、何故かそう言ってしまった。

「君が?」

 来実も所長も目を丸くしていたが、明らかに所長の方が驚いている。

「まあ、良いが。それじゃあ、行こうか」



「去果。君の体調はどうなんだ?」

 廊下を歩いている途中で、所長がそう尋ねてきた。

「今のところ、いつも通りよ」

「そうか」

 会話は僅かそれだけで終了した。

 キッチンに着き、彼はてきぱきと準備を始める。

「去果。この中に、卵を割ってくれ」

「分かったわ」

 握った卵を、じっと見つめる。

 卵を割るのは、何年振りだろう。最後に割ったのは、確か、彼と一緒にクッキーを作った時だ。そうなると、十年振りということになる。上手くできるか不安になってきた。私にできるだろうか? いや、できる。多分。

 ボウルの中に、卵を割り入れる。卵黄は破れ、卵白には小さな白い殻が三つほど浮かんでいた。その失敗した様を、所長が横から無言で見つめている。

「君は、来実に殻まで食べさせる気か?」

「何よ。ちょっと失敗しちゃっただけじゃない」

 嫌味に聞こえて、ついむっとしてしまう。だが、横目で彼を見て驚いた。ほんの僅かではあるが、彼が微笑んでいたのだ。

「大丈夫だ。殻を取れば問題ないさ」

 心なしか、その顔が少し楽しそうにも見える。それでも、その目だけは、いつも通り切なげであった。

「すまなかったな。君が卵を割るのは、本当に久し振りだもんな。できなくて当然だ」

 もしかして、覚えているのだろうか。一緒にクッキーを作った、あの頃のことを。

「バカにしないで頂戴。次は上手く割るわよ」

「そうか。上手くいくと良いな」

 結果。最後だけ上手く割れたが、それ以外は見事に殻が入ってしまった。

「上手くいったじゃないか」

 見ていたのか、所長が声をかけてくる。

「これだけはね」

「一つでもできれば上等だろう。次は、その卵を混ぜてくれ」

 言われた通りに溶いた卵を、所長は煮立った米の中に入れる。そして、軽く混ぜれば、玉子粥の完成だ。彼はそれを小皿に掬うと、私に渡してきた。

「食べてみてくれ」

 味見しろということだ。息を吹きかけて冷まし、食べてみる。

「味はどうだ?」

「んー、ちょっと薄いかしら」

「そうか」

 彼は私の意見を聞き入れて、塩を足した。

 何だか、本当の家族のようなやり取りだ。胸が温かくて、きゅっと締め付けられる。来実がこの施設に来なければ、きっとこんな日は訪れなかっただろう。

 今度こそ完成したお粥を器に盛りつけ、お盆に乗せる。

「私の分はないの?」

 所長が一つしか用意しないのを見て、そう尋ねてみる。

「君はもう朝食を食べただろう?」

「そうだけど、折角一緒に作ったんだから、食べたいじゃない」

 ほぼ所長が作ったものだが。

 彼は何も言わずに歩き出すと、食器棚から茶碗を一つ取り出した。



 来実は運ばれてきたお粥を見て、破顔した。熱はあるものの、元気そうで安堵し、私は近くの椅子に座る。

「去果。ここで食べるつもりか?」

「そのつもりだけど」

 訝しげに眉をひそめている所長は、何か言いたげであったが、すぐに諦めたように溜息を吐いた。

「……うつらないように、離れて食べなさい」

 本当はやめろと言いたかったのだろう。了承してくれたものの、渋々といった様子だ。

「薬を持ってくる」

 そう言って、所長は部屋を出て行った。

「ありがとう、去果。お粥、所長と一緒に、作ってくれたんでしょ?」

「ええ。でも、私は卵を割っただけよ。失敗して、殻も入れちゃったし。取ったけど、もし入ってたらごめんなさい」

「あはは。良いよ良いよ。気にしないから」

 来実は笑い飛ばすと、一口お粥を食べた。

「うん。美味しいね」

「それは良かったわ」

 私もお粥を一口食べる。何度か味見して完成したそれは、食べ慣れた味がした。

「去果、嬉しそうだね」

「え? そうかしら」

「うん」

「そうね。所長と一緒にお粥を作って……家族みたいだなって、思ったの」

 もじもじと、お粥を混ぜながら言えば、来実は微笑ましそうに、にっこりと口角を上げる。

「良かったね、去果」

「所長はそんなこと、微塵も思ってないでしょうけどね」

「そんなことないよ」

「貴女も聞いたでしょう? さっき、貴女が所長に、私が娘だから大事なのかって聞いた時、馬鹿馬鹿しい、くだらないって答えたのを」

 俯く私に、来実は少し間を開けてから、こう言った。

「私は……分かり切ったことを聞くなって意味だと思ったよ」

 私が顔を上げると、彼女は言葉を続けた。

「娘だと思ってるに決まってる、聞くまでもないだろうって。そういう意味だと、思ったんだけどな」

 あの時、彼女が笑っていたのは、そういうわけだったのか。だが、それは。

「それは、貴女の解釈でしょう?」

 あまりにも、都合が良すぎるのだ。

「うん。そうだよ。私の勝手な言い分だよ。所長の言葉の真意は、言った本人にしか分からないから」

 そうして、彼女はお粥を口に運んだ。

 彼女の言葉は、私を期待させるための、優しい嘘ではない。彼女は本気で、そう考えているのだ。

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