一章(三)
「とても、正気の沙汰とは思えないわ」
バイクを運転する来実の後ろで、そう言わずにはいられなかった。
私たちは、また違反のバイクの二人乗りをして、夜道を走っていた。前と同じで、夜景でも見るのかと思っていたのだが、彼女はそこを越え、どんどん町中へと下っていく。
「貴女、どこに行くつもりなの?」
エンジン音にかき消されないよう、声を張り上げて尋ねる。
「それは、着くまでお楽しみだよ!」
「それまでに、車とすれ違ったりしたら、どうするつもりなの!」
「一台や二台に見られたって、どうってことないよ」
「見つかって困るのは私たちなのよ!」
所長や職員たちにこのことが知られれば、お説教は免れないだろう。それだけで済むならマシだ。罰と称して、彼らが何をしてくるか。それが分からないから、恐ろしいのだ。
「悪事でも何でもそうだけど、何かをするにはリスクが付き物だよ!」
そう叫ぶと、来実はバイクを加速させた。町中を、一気に走り抜けるつもりだ!
来実の腰に回した腕に、思わず力が入る。こちらはまだバイクは二回目なのだ。それなのに、こんなにスピードを上げるなんて。
「あはは。二人乗りに、スピード違反まで加わっちゃったね」
暗く狭い路地に入ったところで、来実はようやくバイクの速度を落とした。そして、悪事に悪事を重ねたのにも関わらず、あっけらかんと笑っている。
「とても、正気の沙汰とは思えないわ」
彼女に聞こえたか定かではないが、そう言わずにはいられなかった。
それから、少し走って、バイクは停車する。フェンスを挟んで、広い敷地と、大きな建物が見えた。
「ここは……学校?」
おそらく、そうだと思うのだが。何しろ、私には馴染みのないもので、断言できないのだ。
「うん、そうだよ。だけど、目的地はこっち」
指を差した方向へ進んで行く途中で、彼女の目指している場所と、これからやろうとしていることが分かってしまった。
金網の先、月明かりの光が揺蕩う、黒い水面が見える。プールだ。
「行こう、去果」
早速、金網を乗り越えようとする彼女の腕を掴む。
「どうしたの?」
「私、泳げないわよ。そもそも、泳いだことがないのよ」
「大丈夫。底に足がつくから平気だよ。それに、何かあったら私が助けるから。絶対に。……ね?」
私を安心させたいのか、いつもより優しい声色だ。そして、彼女は手を差し出してくる。私は溜息を吐いて、その手を取った。
金網をよじ登り、プールサイドに降り立つ。顔を見合わせれば、来実は悪戯っ子のように、にやりと口角を上げた。嫌な予感がする。
すると、彼女は私の腕を掴んで、いきなり走り出した。
「あっ、ちょっと!」
そして、そのまま、プールへと飛び込んだのだ! つい先ほど、泳げないと言ったばかりなのに!
プールに沈んだ身体は、勢いのまま底に打ち付けられた。掴まれていた腕は解けて自由になったが、泳げない私は成す術もなく、水中でただ藻掻くことしかできない。息を止めてぎゅっと目を閉じたまま、手足を振り回して暴れていると、またしても腕を掴まれた。上へ上へと引っ張られて、顔に空気が触れたのを感じる。その瞬間、口を開いて、思いっ切り酸素を吸い込んだ。
「酷いじゃない! 何てことするのよ!」
濡れた瞼を拭い、咳き込みながらも文句を言う。ところが、返事がない。
「……来実?」
ようやっと開いた目で辺りを見回すが、どこにも彼女の姿はなかった。まさか、まだ水中にいるのだろうか? そう思い、黒い水面をじっと覗き込むが、この暗闇では人影すら見つけられない。まさか、溺れたのではないだろうか?
「来実っ」
もう一度、名前を呼んでみる。不安のせいか、声が震えた。
その瞬間、突然の水飛沫が襲い掛かってくる。思わず目を閉じれば、くすくすと控えめな笑い声が聞こえてきた。すぐさま瞼を拭って目を開けば、そこには来実がいた。
「ね? 大丈夫だったでしょ?」
頬にはり付いた髪を、彼女の指先が撫ぜてくる。
「貴女って、本当に強引な子だわ」
心配して損をした。溜息を吐かずにはいられない。それでも彼女は悪びれず、楽しそうに笑っていた。そうだ。これが来実なのだから仕方ないと諦めて、彼女に微笑みかける。そして、彼女が私にしたように、頬にはり付いた髪をなぞり、耳にかけてあげた。彼女は呆気に取られたようで、目を丸くしたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
それから私たちは、水を掛け合ったり、プールの中で互いを追いかけ回したりして、子どものように無邪気にはしゃいで遊んだ。誰かに見つかるかもしれないという懸念は、早々にどこかへ消えてしまった。
「去果」
飛び込み台に立つ来実が、プールの中を歩く私に向かって、手を振っている。彼女はその手を首の後ろに回すと、腕を大きく振りかぶって、何かを投げた。きらきらと輝くものが宙を舞って、水面を貫いて消える。
「去果、探して!」
泳げない私に、無茶なお願いをしてくるものだ。
何かが沈んだ周辺を何度も潜っては、手探りで探す。その時、指に何かが引っ掛かった。水中から顔を出し、掬い上げたものを、月明かりにかざして見る。それは、シルバーのペンダントだった。筒状のペンダントトップが、揺れるたびに鈍い輝きを放つ。
「見つけてきたわ。ほら、これでしょう?」
飛び込み台の上でしゃがんで待っていた来実に、見つけたペンダントを差し出した。
「うん。見つけてくれてありがとう、去果」
ペンダントを受け取ろうと、彼女は腕を伸ばしてきたが、私は逆に手を引っ込めた。そして、きょとんとしている彼女の手首を掴んで、こちらに引っ張る。バランスを崩した彼女の身体は、そのまま呆気なくプールへと落ちた。水飛沫を上げて沈んだ彼女だが、すぐに水上に顔を出す。
「もう! 去果ったら!」
「最初にやってくれたお返しよ」
仕返しされても、来実は楽しそうに笑っていた。
「ねえ、来実」
「ん? なあに?」
「これ、ピルケースでしょう?」
再びペンダントを突き出して、尋ねる。彼女の顔から、ふっと笑みが消えた。
筒状のペンダントトップは、中に薬を入れておける仕様になっていた。
「そうだよ。持病があって、いつ症状が出るか分からないから」
そう言うと、彼女は私に一歩近付いて、妖しげに微笑んだ。
「去果だって、そうでしょ?」
濡れた服の上から、首筋のチェーンをなぞられる。私が肌身離さず身に着けて、服の内側に隠しているペンダントに、目敏い彼女はとっくに気付いていたのだ! 一度だって見せたことはないし、それがピルケースであることも知らないはずなのに、その口ぶりは、まるで何もかも知っているかのようだった。彼女は私のことを、一体どこまで知っているのだろう?
「大切なものは、しっかり掴んで、離さずにいなきゃ駄目よ」
彼女の首に腕を回し、ペンダントを着けて返してあげる。
自ら口にしたこの言葉、どこか聞き覚えがあるが、何だっただろう。……そうだ。思い出した。これは、まだ小さかった頃の私に、所長がよく言って聞かせてきた言葉だ。
「ありがとう」
肌にはり付いた襟元を引っ張って、来実はペンダントを服の中に隠し入れた。
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