一章(二)

 昨日の花火の騒がしさが嘘のように、静かで穏やかな朝だ。

 ワンピースの裾から覗く手足は青白く輝き、時折吹く爽やかな風が、淡い色の髪をなびかせている。薄明の中で佇む来実は、非常に繊細で儚く見えた。彼女のいる場所が、屋上の柵の向こう側であるせいかもしれない。

「危ないわよ」

 声をかければ、彼女はちらりとこちらを一瞥した。だが、またすぐに背を向けてしまう。心配して注意したところで、自由奔放で突拍子もない彼女が、それを聞き入れるはずもなかった。溜息を吐き、彼女のそばに歩み寄る。

 そういえば、屋上に入ったのは、これが初めてだった。

「屋上の鍵もくすねたのね」

 やっぱり、盗んでいたのは地下駐車場の鍵だけではなかった。

「うん。だって、絶対私には渡してくれないでしょ?」

 それはそうだ。彼女には、学校の屋上で自殺未遂を起こした前科があるのだから。

「もしかして、私が死のうとしてるように見えた?」

「……いいえ。前のことは分からないけど、今の貴女は、自ら死を選ぶような真似はしないと思うわ。私がそう思っただけで、貴女が本当にどう思ってるのかは、分からないけど」

 正直、柵の向こうにいるのを見た時はぎょっとして、まさかとは思った。彼女には前科があるし、その時と状況も酷似していたからだ。だが、彼女の反応や声色で、自殺するつもりはないとすぐに分かった。それに、以前の来実はどうであったか知らないが、今の彼女は、自殺をするような子には見えなかったのだ。

 すると、彼女はしっかりと、こちらを振り返った。その顔には、柔らかな笑みが浮かんでいる。

「去果は私のこと、よく分かってるね。そうだよ。死にたいから、ここにいるんじゃないの。だから、安心して」

「分かったわ」

 彼女は頷くと、また後ろを向いてしまう。

「去果は知ってるんだね。私が自殺未遂を起こしたこと」

「ええ。所長から聞いたわ」

「そっか」

 沈黙が訪れる。先に口を開いたのは、来実の方だった。

「初めてこっち側に来た時ね、私は目が覚めたんだ」

「どういうこと?」

「私として生きようって決めたの。誰かに従う必要なんてない。私は私の心のままに、自由に生きようって。そう強く思ったの」

 その声には、凛とした力強さがあった。

 自殺未遂の後、彼女が大胆で自由奔放になったのは、そういう理由からだったのか。一人納得していると、来実がおもむろに振り向いた。

「去果も来てみる? こっち側に」

「え?」

 突然の提案に、戸惑いと驚きを隠せない。彼女は微笑みながらさらっと言っているが、自らの行いがとても危険な行為だと、自覚がないのだろうか。とにかく、簡単に人に勧めて良いような行為ではない。

「大丈夫だよ。私がいるから」

「踏み外したら、一緒に落ちてくれるの?」

「良いよ。去果となら、死んでも構わない」

 射貫くような真っ直ぐな眼差しが、私を捉える。半ば冗談のつもりで言ったのだが、彼女は本気だった。

 私は柵を乗り越えて、彼女の隣に立った。

「死ぬために、ここにいるんじゃないでしょう?」

 そして、彼女をじっと見つめ返す。私の行動に驚いたのか、その目は見開かれ、瞳は微かに揺れていた。それから彼女は、優しく微笑んだ。

「こうしてるとね、私は本当に私として、自由に生きてるって実感するんだ」

「貴女の言いたいことは、何となく分かるわよ」

 一歩間違えれば、死ぬ。そんな死と隣り合わせの状況が、生きていることを強く実感させた。

「私ね、ずっと嘘偽りの自分を演じてきたの。自分の気持ちを押し殺して、我慢して、皆が求める良い子の私でい続けた。どこにも、本当の私はいなかったの。だけど、あの日。屋上のフェンスを乗り越えた、あの時。私は目覚めたの。目が覚めて、私は私になった。だからね、今は心のありのまま、本当の私で自由に生きられるんだ」

「私は前の貴女を知らないけれど、今の本当の貴女は、とても素敵で魅力的だと思うわ。……ちょっと大胆で、突拍子もないところもあるけれど。まあ、それも含めて、貴女なんだものね」

「ふふ。ありがとう、去果。……両親もクラスメイトも先生も、誰もそう言ってくれなかったから」

 少し悲しげに呟く来実がいじらしくて、思わずその手を握ろうとしてしまう。だが、指が掠ったところで、思いとどまってやめた。嫌がられるかと思ったのだ。ところが、何と彼女の方から、私の手を握ってきた。私はその手を、ぎゅっと握り返した。

 嬉しそうに仄かに頬を染め、来実はにこりと微笑む。

「花火、楽しかったね」

 話題は、昨日の夜の花火のことになった。

「そうね。貴女がライターを持って走り出した時は、どうしようかと思ったけれど」

「あはは。去果も所長も、ぽかーんとして見てたもんね。同じ顔してたもん。やっぱり、親子は似るんだね」

 だから、所長はただの父親代わりだと言っているのに。彼女の目には、私たちが本当の親子であるように映っているのだろうか。彼とは、ほとんど会話もしないというのに。

「似てるはずないじゃない。血の繋がりもないのに」

「血の繋がりだけが、家族じゃないよ」

「じゃあ、何が家族たらしめるの?」

「お互いに家族だと思っていれば、それだけで家族だよ」

 その横顔は、どこか切なげだった。義理の両親を思い出しているのかもしれない。

「それじゃあ、私と所長は家族じゃないわね。残念ながら、私は彼を父親だとは思っていないもの。あくまで、代わりであるだけ。彼も私を、娘だとは思っていないだろうし」

「そうかな。所長が去果を娘だと思ってないなら、私がライターを持って走り出した時、あんな必死の形相で、去果の方に向かっていったりしないと思うけどな。去果は見てないから、分からないかもしれないけど」

「貴女、所長に、私との仲を取り持ってほしいとでも頼まれてるの?」

「違うよ。私が勝手に言ってるだけ」

「……そう」

 淡い期待を抱いた、私がバカだった。

 今でこそ、所長との関係は冷め切っているが、昔は本当の父と娘のようであり、本当の家族のようであった。血の繋がりのない、ただの父親代わりだと知っていても、私は所長を本当の父親だと思っていた。彼もまた、私のことを本当の娘のように育ててくれていた。それが、いつからこんなふうになってしまったのだろう。

 本音を言えば、今でも彼を父親だと思っているし、あの頃の家族のような関係に戻りたいとも思っている。だが、それを伝える恥ずかしさと、拒絶される恐怖があって、素直に打ち明けられずにいた。それに、今の所長の私への態度に腹が立ち、私も意地を張って、つい同じような態度を取ってしまうのだ。それで、来実にも、父親代わりだと言い張ってしまった。

「去果。家族になるのに、遅いことはないけれど、でもね、早いに越したことはないと思うんだ。時間は永遠じゃないからね」

「……そうね」

 まるで、私の本当の気持ちを見透かしたような助言だった。

 そうだ。時間は永遠じゃない。限りがある。私は特にそうだ。じゃあ、彼女は? 彼女も、そうなのだろうか?

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