一章
夜更かししたせいで、目が覚めた時にはすでに九時を過ぎていた。
キッチンに行くと、紅茶の香りが漂っていた。そこには来実がいて、退屈そうにティーカップを覗き込んでいる。
「あっ。おはよう、去果」
私に気付いた瞬間、彼女はつまらなそうにしていた顔を、ぱっと綻ばせた。
「おはよう。早起きなのね」
向かい側に座り、置いてあるサンドイッチを手に取る。
「昨日は楽しかったね」
「そうね」
あの後、興奮冷めやらず、中々眠れなかったのは、来実には内緒だ。
「誘ったら、また一緒に悪いことしてくれる?」
「ええ。良いわよ」
「じゃあ、今夜、花火をしようよ」
「良いけれど、それは別に悪いことじゃないわね」
花火か。幼い頃、やったような思い出が薄っすらとある。浴衣を着せてもらって、所長と一緒に花火をしたのだ。小さい頃は、所長と本当の親子のように過ごしていた気がするが、あまり記憶が鮮明ではない。それに、今となってはもう昔のことだ。
夜になり、約束通り、来実と一緒に施設の前で花火をしていた。最初は恐怖を感じたが、そんなものはすぐに消え、二人で花火を振り回しながらはしゃいでいた。
「所長も一緒にやりたいのかな?」
「そんなわけないじゃない。ただの見張りでしょう」
正面玄関の前で、所長は腕を組みながら、こちらの様子を眺めていた。微笑ましそうに子どもを見守る、父親のように……。なんて、そんなことあるはずもなく、彼はいつもと変わらぬ物憂げな表情を浮かべていた。相変わらず、酷く切なげで暗い目だ。彼があんな目をする理由に、一つだけ思い当たることがあるが、それについて尋ねたことがないため、確証はなかった。
「所長は、去果のお父さんなんだよね?」
来実の何気ない言葉に、思わずぴくりと肩が跳ねる。
「父親代わりよ。血の繋がりはないわ。名字も違うでしょう? 所長の姓は
所長と私は、一応父親と娘という関係ではある。だが、血の繋がりはないのだ。
「うん。それは知ってるよ」
「じゃあ……何?」
彼女が何を言いたいのか、よく分からない。すると、彼女は突然、所長に向かって叫んだ。
「所長! 所長も一緒にやりませんか?」
まさか、所長を誘うとは思わなかった。当然だが、彼はそっぽを向いて、来実の言葉を無視する。彼女はむっとした表情を浮かべると、花火を一本持って、所長の元へと行ってしまった。一言、二言、言葉を交わした後、来実は所長の腕を掴んだ。そして、引っ張って、無理矢理こちらに連れて来たのだ!
「一本だけ、一緒にやってくれるって」
来実は微笑んでいるが、絶対にそうは言っていないだろう。所長の顔には明らかに、困惑の色が浮かんでいた。だが、彼も諦めたのか、溜息を吐き、渋々と花火に火をつけた。
誰も何も言わない。終始無言だった。花火の赤い光を見つめる所長の瞳は、悲しげに揺れている。そうしている間に、火が消えた。
「もう一本、やります?」
終わった花火をバケツに入れる所長に、来実が尋ねる。
「結構だ。君たち二人で楽しみなさい」
そうして、彼は元の場所へと戻っていった。
「貴女……どうして、所長を誘ったりなんかしたの」
「私、所長のことよく知らないから。どんな人か、知りたかったの。だって、他でもない去果のお父さんだからね」
「だから、父親代わりだって言ってるでしょう。無理矢理連れて来たりして。怒られてもしらないわよ」
「大丈夫だよ。怒ってないから」
そうは言うが、ちらりと横目で見た所長は、先ほどよりも一層と、眉間のしわを深くしているようだが。
「そんなことより、ほら。花火しよ? まだまだいっぱいあるんだから」
笑顔で花火を差し出してくる来実に、私は半ば呆れて溜息を吐きながらも、微笑んでそれを受け取った。
あんなにあった花火も、これで最後になってしまった。
「ねえ。貴女はどうしてここに来たの?」
二人でしゃがみ込み、最後の線香花火をしている時、私は静かに尋ねた。
「貴女は、大きな街に住んでいて、義理とはいえご両親がいて、それに、学校にも通っていたのでしょう? それなのに、どうしてここに来たの? 自由な貴女には、ここはあまりにも不自由でしょう」
ここに来ないという選択肢が、彼女には与えられたはずだ。それなのに、何故こんな田舎の施設を選んだのだろうか。
視線を上げて、彼女を見た瞬間、心臓が大きく跳ねる。彼女は真剣な顔で、じっと私を見つめていた。そして、ほんのりと微笑んで、こう囁いたのだ。
「去果に会うためだよ」
線香花火の朱に照らされた来実の顔が、やけに色っぽく見えた。
「私は去果に会いたくて、ここに来たの」
「……それだけ?」
「去果にとってはそれだけかもしれないけど、私にとっては、とっても大きな理由なんだよ。それこそ、今までの生活を捨てられるくらいにね」
分からない。私たちは、昨日まで会ったことすらなかったのだ。そんな私に会うためだけに、彼女は家族も故郷も普通の生活も捨てて、ここに来たのだ。どうしてそこまでして、私に会いたかったのか。どうして育ててもらった両親ではなく、会ったこともない私を選んだのか。私には分からなかった。
「あっ」
その時、来実の持っていた線香花火の火球が、地面にぽつりと落ちて消えた。
「落ちちゃった」
「そうね。あっ」
こちらの火球も落ちてしまった。私はすぐにバケツに入れてしまったが、彼女は何も言わずに、ただの紐になった花火を見つめていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「……うん。大丈夫だよ」
力なく微笑んで、彼女は終わった花火をバケツに放り入れる。
「ねえ、去果」
「なあに?」
来実はしゃがんだまま、こちらに近付いてきた。
「去果の言う通り、ここは不自由だと思うよ。去果はずっと、この不自由の中で生きてきたんでしょ? 自由に生きてみたくない? 昨日の夜みたいに、自由に」
甘い誘惑のような囁きが、昨日の夜のことを鮮やかに思い出させる。初めてだったのだ。まともにこの施設の外に出たのは。
「私は……」
自由になれば、何ができる? どこへ行ける? 私がずっと憧れ続けた、あの景色を、見ることができる?
私が何も言えずにいると、来実は悪戯っぽくくすりと笑った。
「ここが不自由なら、壊しちゃおっか?」
「え?」
そう言うと、来実はライターを持って、一目散に駆け出した。まさか、放火でもしようというのか! そう思った時には、もう遅かった。けたたましい爆発音と共に、色とりどりの火花が、次々と天に向かって噴き出す。そう。彼女が火をつけたのは、花火だった。
目の前の衝撃的で美しい光景を、呆然と見つめることしかできない。全ての花火を点火し終えた来実は、その中で立ち尽くしていた。そして、振り返った彼女の顔には、けしかけるような強かな笑みが浮かんでいた。
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