巡愛

雲居彩

序章

「初めまして。押切来実おしきりくるみです」

 肩の下でふんわりと靡く、ミルクティーのような淡い色の髪。垂れ目から覗く、透き通った茶色の瞳。口角の上がった、小さくてふっくらとした桜色の唇。誰からも好かれるような、穏やかで柔らかな雰囲気を纏った、可愛い女の子。それが、彼女に抱いた印象だった。

見留去果みとめさりかです」

 こちらも名乗れば、彼女は優しく微笑みかけてきた。柔らかな弧を描いた瞳は、まるで夢見る少女のように、きらきらと甘く輝いている。外の世界で育つと、こんなふうになるのだろうか。

「何か分からないことや困ったことがあれば、去果に言ってくれ。世間知らずなところもあるが、仲良くしてやってほしい」

 そう言ったのは、この施設の所長だ。

「はい。勿論です」

「去果。後は任せる。彼女を部屋まで案内してあげなさい」

「分かったわ。行きましょうか」

「うん」

 彼女、押切来実がこの施設に連れて来られたのは、自殺未遂を起こしたからだそうだ。何でも、学校の屋上の鍵を破壊し、フェンスの向こう側に立ち尽くしていたらしい。真面目で大人しく良い子で、教師や同級生たちからの評判も良かった彼女が、どうしてそんなことをしたのか。皆が口々に理由を尋ねたが、結局彼女は最後まで口を割らなかったそうだ。その後、彼女は人が変わったかのように、大胆で自由奔放になった。困った養父母は、本社に相談し、彼女にこの施設での生活を提案した。彼女はそれを承諾し、そして、ここに連れて来られた。それが、所長から聞いた来実の情報だ。だが、彼女の言葉や表情からは、とても自殺するような子には見えなかった。



 その夜。寝付けずにベッドの上でごろごろしていると、どこかの部屋のドアが開けられた音が聞こえてきた。眠っていたら気付かないくらい、微かな音だ。

 私はベッドから飛び起きて、慎重に自室の扉を開けた。僅かな隙間から覗いた、薄暗い廊下に、人影が見える。それが誰なのか、月明かりに照らされた後姿ですぐに分かった。

「どこに行くの?」

 小声で問いかければ、息を潜めて歩いていたその人は、ぴたりと足を止める。

「見つかっちゃったね」

 振り向いたその人は、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。押切来実だ。

 ドアの音が聞こえるなんて、隣の部屋にいる彼女以外に、考えられないだろう。私は静かに扉を閉めて、彼女に近付いた。

「私を叱る? それとも、あいつらに言いつける?」

 そう言った途端、彼女の顔から可憐な少女の面影が消えた。有無を言わさぬような、凶暴なくらい強い眼差しが、私をしっかりと捉えている。そして、口元には不敵な笑みまで浮かんでいた。

 これが、本当の押切来実なのだろうか?

「いいえ。そんなことはしないわ」

 私の答えを聞くと、彼女はふっと表情を和らげた。

「そっか。私はてっきり、去果は私の監視役なんだと思ってたよ」

「私にそんな大役が任されるはずないじゃない。けどまあ、もしかしたら、そういう意図もあって、貴女と仲良くしろと言ったのかもしれないけれど」

 彼女は何故か驚いたように、大きな目を丸くして、私をじっと見つめてきた。

「なあに?」

「ううん。ちょっと意外だったから。私、去果のことが知りたくなっちゃった」

「そう」

「うん」

 沈黙が訪れる。彼女は可愛らしく微笑んでいた。だが、その目だけは、何かを欲するかのように、ぎらぎらとした鋭い光を宿していた。

「それで、どこに行くつもりだったの?」

「秘密。でも、最高の夜になるよ。去果と一緒なら、もっと最高になるんだけどなあ」

「……一緒に来いってこと?」

 どうやら正解らしく、彼女は何も言わずに、満面の笑みを浮かべてみせた。

 彼女がどこに行くつもりなのかは分からない。ただ、何となく、ここから抜け出すつもりなのだろうと思った。

 私は答えに迷い、視線を逸らした。命令によって、外出は禁止されている。だが、どこに行くつもりだろうと、彼女と一緒に行ってみたいというのが、私の本心であった。でも、命令を破ったと知れたら、どうなるのか分からない。心に従うか、命令に従うか。頭の中で、様々な葛藤が駆け巡る。

 ちらりと、彼女を見てみる。彼女は私を真っ直ぐに見つめていた。その眼差しに、もう逃げられないと思った。

「……分かったわ。一緒に行くわ」

 その答えに、彼女は嬉しそうにぱっと顔を綻ばせる。

「うん。一緒に行こう、去果」

 白くて小さな手が、私の前に差し伸べられる。後ろめたさや躊躇いがなかったわけではない。それでも、私は彼女の手を取った。



 部屋に戻って着替え、再び廊下に出れば、彼女はそこで待っていた。出てきた私を見ると、来実はにこりと微笑んで、私の手を握ってくる。そして、そのまま私の手を引いて、どこかへ向かって歩き出した。

 正直、こんなふうに誰かに触られるのは、好きではない。データを取るために、所長や職員たちに触られるが、その時私はただの物として扱われるからだ。だが、彼女は違う。彼女の手からは、優しさと温もりと慈しみが感じられた。彼女とは、平等であり、対等である。そう思えて、胸がじんわりと温かくなった。

 さて。私たちは今、地下駐車場の出入り口の前にいた。ただ、この扉には鍵がかかっている。私は当然、鍵を持っていないし、彼女もそのはずだが、どうするつもりなのだろう。まさか、自殺未遂を起こした時のように、破壊するつもりだろうか? そんなことを考えていると、彼女はカーディガンのポケットから、鍵を取り出した。

「その鍵、どうしたの? 所長は貴女に、自室の鍵と正面玄関の鍵しか渡していないはずだけど。彼に頼んで、もらったの?」

「ううん。くすねたの」

 悪びれる様子など一切なく、彼女は鍵を開けながら答えた。可愛い顔に見合わず、あまり手癖は良くないようだ。まあ、破壊されるよりはマシだが。

「所長たちには、内緒にしてね」

「言わないわよ」

 言えるはずがない。今まさに、私も規則を破ろうとしているのだから。私たちは共犯者だった。

「まさかとは思うけど、他の鍵も盗んだんじゃないでしょうね」

「ふふ。どうだろうね」

 確実に盗んでいると、何故か確信できた。

 誰からも好かれるような、穏やかで柔らかな雰囲気を纏った、可愛い女の子。これが、彼女に抱いた印象だったが、どうやら幻想だったようだ。全く、人は見かけによらない。

 地下駐車場には、社用車と職員たちの車と、それからもう一台。見慣れないバイクが置いてあった。

「はい、去果。ヘルメット。被ってね」

 押し付けられるようにヘルメットを渡されて、受け取らざるを得ない。

「まさか、バイクに乗るつもりなの?」

「そうだよ」

 彼女は慣れた手付きで、ヘルメットを被る。

「……貴女、運転できるの?」

「うん。任せてよ。ちゃんと免許持ってるから」

「そう。それなら、良いのだけれど」

 自信満々に答えた彼女だが、本当かどうか、少し怪しかった。

 取り敢えず、見様見真似でヘルメットを被る。顎の紐を留めようとするが、初めてのせいで、中々上手くいかない。

「ふふ。私がやるよ」

 見かねた彼女が、くすりと小さく笑って、手を差し伸べてきた。その指先が、私の肌を掠めながら、顎紐をかちりと留める。

「はい、できたよ」

「ありがとう」

「うん。ほら、乗って乗って」

 彼女は、バイクに跨った。このバイクは、彼女の物のようだ。促されるまま座ったのは良いが、それからどうすれば良いか分からない。すると、彼女はまた小さく笑って、私の手を掴むと、そのまま自分の腰に腕を回させた。彼女の腰は、見た目よりも細くて、あまり肉付きを感じなかった。

「バイクは、初めて?」

「ええ」

「きっと気に入るよ。あっ、足はつけちゃ駄目だから、浮かせててね?」

「分かったわ」

「しっかり、掴まっててね。それじゃ、行くよ」

 言い終えるや否や、彼女はバイクを急発進させた。その勢いで身体が後ろに引っ張られ、振り落とされそうになる。恐怖から目を瞑り、咄嗟に腕に力を込めて、しっかりと抱き着いた。

「去果、大丈夫?」

「大丈夫じゃないわよ。初めてだって言ったじゃない」

「あはは。ごめんね。でも、気持ち良いでしょ?」

 そう言われて、恐怖ではない感覚にも気付く。確かに、打ち付ける風と、来実の生温い肌の熱が、何とも心地良かった。

「そうね。バイクって、一人で乗る物だと思ってたけど、二人も良いわね」

「これは原付だから、一人しか乗れないよ?」

「……え?」

「要するに、二人乗りは違反ってことだよ」

 随分とあっさりと、とんでもないことを明かすものだ。折角、良い気分になっていたのに、途端に冷静になる。

「今すぐ降ろして頂戴」

「大丈夫だよ。目的地はもうすぐそこだし、この辺りに警察はいないでしょ?」

 そういう問題ではないのだ。彼女には、常識というか、不安というか、そういうものがないのだろうか。

 そうこうしているうちに、目的地に着いたらしい。バイクのスピードが落ちて、止まる。幸いにも、恐れていた事態は免れたようだ。

「一度、二人乗りしてみたかったんだ」

 ヘルメットを外し、露わになった彼女の顔には、悪戯っぽくて、けれども満ち足りた笑みが浮かんでいた。

「だからって、私を巻き込むのはやめて頂戴」

「ごめんね。去果と二人乗りがしたかったんだもん」

 全く。溜息を吐くしかない。

 自殺未遂の後、大胆で自由奔放になったということだが、まさしくこれがそうなのだろう。突飛な行動には辟易してしまうが、それと同時に、その度胸や恐れ知らずなところには、魅かれるものがあった。きっと、それが私にはないものだからだろう。

「免許があるっていうのは、本当なのよね?」

「安心して。それは本当だよ」

 彼女はバイクから降りると、路肩にある木の柵の前まで歩いていく。

「去果も来て。見てよ」

 手招きされて、私もバイクから降り、彼女の隣に立った。眼下の暗闇の中では、点々と光の粒が煌めいている。だが、この山に囲まれた田舎町では、その光はまばらで、夜景と呼ぶにはあまりにも寂しい景色だった。

「こんな田舎の夜景が見たかったの? 貴女の住んでいた街の夜景の方が、もっと素晴らしかったでしょう?」

 ここに来る前の彼女は、大きな街に住んでいたはずだ。

「違うよ。夜景が見たかったんじゃなくて、去果が今まで生きてきた世界を、見せたかったの」

 視線が交わる。街灯の明かりを落とした彼女の目が、不気味に鋭く光って見えた。

「悪いことするのって楽しいよね。こういう緊張感って、他では味わえないから。生きてるって感じがするの」

 うっとりと語るその横顔は、夢見る少女そのものだ。だが、その目には、ほんの少しの狂気が滲んでいる。

「去果はどう? 初めての悪いことでしょ? どんな気分?」

「そうね……とても新鮮で、ドキドキするわ。貴女が悪いことに夢中になるわけね」

 ここに来るまで、不安や恐怖や後ろめたさばかりだったはずなのに。いつの間にか、それに高揚感を覚えていた。こんな感覚は初めてだ。強く脈打つ鼓動に、彼女の言う通り、生きていることを実感する。

 そんな私の言葉を聞いて、彼女は満足そうに微笑むのだった。

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