第三話 脳裏の迷宮


「ああ……そのとおりや」


 純平の言葉を思い出したように、野々村はそう呟いた。そのとき、何かしら彼の五感が頭の片隅に響き渡ることに気づいた。


 野々村は、マイペースで結構いい加減なところがあるやさぐれ刑事だと、自分でも認識していた。しかし、殺人捜査の現場に一歩でも足を踏み入れれば、人が変わったような別の存在へと成り代わった。人知れず、命がけで立ち向かってきた。彼は自分と同じように媚びへつらうことなく、ひたむきに捜査を進める係が好きだった。


 公園の現場には、鑑識係で腕利きと信頼していた角野が先に来ていた。彼も野々村の相棒で長年にわたり、いくつもの難題事件の解決に大きな成果を上げていた。


 角野が遺体のそばで立ち上がり、瓶底メガネの厚いレンズをものともせず、真剣な眼差しで口にした。


「被害者の手には女性らしい髪の毛が握られています。そして、ブランコ下の地面には、雨にも消されなかった奇妙な小さい靴跡がいくつも……」


「奇妙な靴跡? おお、これか……。首を絞められた形跡は?」


 野々村が神妙な顔つきで尋ねた。


「ありません」


 角野は待っていたように答えた。


 突然、野々村は地面を這うような姿勢でその靴跡を見つめた。湿った土の匂いを嗅ぎながら、その場に暫しの間立ち尽くし考え込んだ。


 地面に残る小さな靴跡はブランコのそばにどちらも裏表となりえる円を重ねて纏わりつき、まるで何かを語りかけるように「メビウスの環 ∞ 」の不思議な形を描いていた。それは、「無限」 を意味する記号だ。

 これが殺人事件ならば、犯人は何を無限にしたいのだろうか……。彼はそこはかとなく暗中模索の中で迷った。


 かつて悔恨が残る事件で証拠品として見捨ててしまった、「まんじ」や「グリモワール」のことを思い出していた。もう二度と同じ轍を踏みたくはなかった。


 しかも、その中心には、たった一枚の桜の花びらが静かに横たわっていた。桜は何を意味しているのか。けれど、桜なんてまだ咲いていない。ならば、この花びらはどこから飛んできたのだろうか……。ますます、思考の迷路に踏み込んでいた。


 ブランコの前面には別の大きな足跡がいくつか残っていたが、奇妙な靴跡以外は雨で消されていた。野々村は、角野と安田に顔を向けて口にした。


「おい、鈍平。ならば、どうしてここだけに桜の花びらと靴跡が残ってるんだ? 桜はまだ咲いてねえのによ。摩訶不思議だと思わないか? あたかも俺たちに見せつけるようにな。わからんことばかりや」


 野々村はそう言って、首を傾げた。


 その時、彼はあたかも桜の木立の影に自分たちの動きを探るかのような気配を感じた。しかし、それは靄に覆われたごとくすぐに消えた。


 非常線のそばで、出前の自転車を脇に抱える通報者から詳しい話を聞いた。


「刑事さん聞いてくださいよ。俺、見たんです。男が眠ってるのにブランコが揺れ動いていた。その背後に黒い影があったのを……」


 ところが、彼は男の顔を覗き込んだら、息をしていなかったという。その影はいつとはなしに消えてしまったらしい。それは、野々村が見た現象と似ていた。ここには魔物が棲みついているのかもしれない。もちろんのこと、彼は「自分が殺したのではない」と言ってきた。


 目撃者は、最初はただの夜更けの一幕だと思っていた。ブランコが静かな公園の夜風に揺れているのを見て、そこに眠る男を羨ましく思った。

 しかし、近づいてその男の顔を覗き込んだ瞬間、彼の心臓は凍りついた。息絶えたその姿は、まるで長い一日の終わりに安息を求めた旅人のようだった。目撃者は、自分自身の目を疑い、そして恐怖に打ち震えた。死という現実が、彼の前に突如として現れたのだ。


「靴底を、今この場で見せてくれないか?」


 刑事の野々村は、疑うわけではないと前置きしながら、穏やかに目撃者に頼んだ。目撃者は一瞬、疑念の影に怯えた表情を浮かべたが、すぐに落ち着きを取り戻し、靴を脱いで見せた。彼の靴底には、大きな足跡がくっきりと残っていた。それは、ブランコの前に残された足跡と一致していた。


 しかし、謎は深まるばかり。ブランコの周囲に纏わりつくような、不可思議な小さな靴跡は、一体何を物語っているのだろうか。


「わからねぇ。もう頭が壊れそうや」


 野々村は、ますます不思議な想いで脳裏がいっぱいとなり、そう呟くと頭を掻きむしっていた。


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