第二話 悔恨という涙


 春霞を払いのける冷たい風が、戸丸谷公園の非常線を揺らし、野々村と安田が現場に足を踏み入れたとき、その静けさが二人の緊張をより一層際立たせた。

 ブランコに倒れている男性の姿は、周囲の平穏とは対照的な異様な光景を描いていた。彼の身体は不自然な角度で曲がり、恐怖に歪んだ顔は白目を剝いていた。


「おい、鈍平、ここで何が起きたんだ。お前なりに考えてみろ」


 野々村が軽口を叩きながらも、目は真剣そのものだった。安田は周囲の空気を読み取りながら、不安げに応じた。


「こたさん、ほらまた。さっき言ったでしょう。僕の名前は純平ですよ。それに、この静寂……何かがおかしいです」


 反面、野々村は殺人事件の捜査での物怖じしない功績に対して、幾度も本部長表彰を授与されていた。ところが、その過去は彼の現在の行動に影を落としていた。それは、彼からみてあまり口にはしたくないふたつの黒歴史だった。


 五年前まで、野々村の父親は子どもたちをこよなく愛するやさしさが認められて、保育園の送迎バスの運転手として働いていた。

 ところが、ある暑い夏の日、ひとりの児童をバスに残したまま気づかずに立ち去ってしまい、結果として幼子の命を奪う痛ましい過失を犯した。

 その夜からネット社会には、父親の顔とその責任を糾弾する厳しい意見が次から次へと載せられた。記事の中には野々村が警察官をしていることまで突き止め、「殺人者の息子が刑事をやってるのか。即刻やめさせろ」という批判も寄せられた。

 父親はその息子まで巻き込み世の中を席捲し、ループをどこまでも続ける批判に心が苛まれて、自ら命を絶ってしまった。


 どうしてもっと早く、気づいてやれなかったのだろうか……。この事件は野々村がひとりの人として自分自身に深い傷を残し、彼の心には慎重で穏やかだった父親の行動の理由を探ることへの強い衝動が刻まれた。


 もうひとつ、三年前の女子高校生殺人事件は、もっと痛ましかった。野々村の刑事という立場で別の種類の悔恨をもたらした。

 元カレを重要参考人として追い詰めることには成功したが、結局のところ自白を得られず容疑不十分として放免された。その男が最終的に自らの命を絶ち、真実は永遠に闇の中へと葬られた。

 容疑者の部屋には見たこともないタイトルのまじない本「大奥義書」が残されていた。その薄汚れた壁には不気味な黒い雌鶏のイラストが描かれ、「エロイムエッサイム。我は求め訴えたり」という悪魔を呼び覚ますような呪文が書かれていた。


 証拠になりそうな物は、他にもいくつかあった。被害者の上着のポケットから見つかった「卍」という怪しい記号が残る携帯電話。

 そして、現場で見つかった一枚のタロットカード、謎の魔術書を意味する「グリモワール」だ。


 ところが、野々村はこれまで神の存在やスピリチュアル的なものを信じていなかったので、重要な証拠品として認識しなかった。

 結果として、その愚かな不作為が原因となり、事件は未解決のままで迷宮の闇に葬り去られた。それは、野々村の心に深い悔しさを残し、その感情が苦渋の涙となり、彼の頬を伝っていた。


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