第十五話 亡霊との対峙


 警察の威信を気にするあまり、捜査本部が閉鎖されてから、東署にはモラルの残滓しか残されていなかった。その隙をひよりの収まりきらない悔恨の情に狙われ、恨みを買ってしまったのだろう。


 同時に、聖護幼稚園もまた、身の毛もよだつ災厄によって一変していた。野々村が園内に足を踏み入れると、その恐ろしさが肌で感じられた。幸子は身体を震わせながら、次々と話してくれた。


「子供たちがわらべ歌や聖歌を合唱していると、先生が弾くピアノの音色がすぐに乱れてしまうんです。調律したばかりなのに……」


 そして、子どもたちの無邪気な歌声に、普段とは異なるレクイエム(鎮魂歌)の旋律が重なり始めるという。


 幸子が再度幼稚園の日誌を調べたところ、ひよりが幼稚園のピアノでパッヘルベルのカノンを練習していたことが分かった。


「幸子、他になにか気になることはありますか?」


 安田は心配そうに尋ねた。


「数えきれないほどのことが……」


 幸子は、憂いを帯びた顔で言った。


 ひよりの魂を見た夜から、恐怖は日に日に増している。


 まず、彼女の写真が入った額縁が床に叩きつけられた。デスクトップの壁紙が黒猫の画像に変わり、風もないのにガラス窓がざわめき始め、廊下を子どもが走り回る音が聞こえた。持ち主のない弁当箱が机の上に現れた。


 それらがあまりにも恐ろしい光景だったため、白骨死体と蛍火が見えた古井戸は、呪いを解くために神社の宮司に祈祷を依頼したという。


「本当に、凄すぎる」


 野々村が唖然として口にした。


「最も恐ろしかったのは……」


 幸子がもう我慢できないと言いたげに、口を開いた。


「また、幼稚園の送迎バスにひよりちゃんらしい亡霊が現れて……」


 昨日、運転手が園児を全員降ろしたというのに、バスの一番後ろの席に女の子が座っており、「まだいるよ。おいでおいで」と言葉を残し消えてしまった。


 報告を聞き、悲しみに打ちひしがれた幸子は、今朝、ひよりの母親と墓参りに行った。墓前に百合の花を手向けていると、女の子が黄色の帽子を被ったまま、木立の陰から幸子さんの顔を見つめていた。


 幸子は二十年間の出来事を包み隠さず説明し、除霊の協力を求めた。母親は、ひよりの可愛がっていた黒猫が彼女の死を追うように亡くなったのを知り、教会で洗礼を受けたという。ひよりの命日にはエクソシスト(祓魔師)と一緒に力を貸してくれる返事をもらったと教えてくれた。


 除霊が終わって子供たちの安全が確認できるまで、保護者には休園をお願いして、おかしな噂が飛ばないように、ママ同士の個人的な連絡先の交換、ランチ会はすべて控えるように頼んだところだったという。


 幸子は、ひよりの霊を園から取り払うというよりも、心静かに安らかに眠ってほしいと願っていると言ってきた。


「やっぱり、ここにはまだ悪霊が棲みついてるよ。僕らは戦うしかないんだ。そして、ひよりの精霊をよみがえらせよう」


 野々村は握りこぶしに力を込めて言った。


 暗く冷たい影が園を静かに、しかし確実に侵食し始めた。過去の悲しみが新たな恐怖を呼び起こし、園の隅々から忘れ去られた魂の嘆きが聞こえてくる。そのおぞましい闇は、さらに深い秘密を囁き、園児たちの心にも不安の影が忍び寄る。


 悪霊の呪いがさらに力を増して、再びこの園に降りかかっていた。野々村たちは、ひよりの命日に向けて、悪魔祓いの準備を進めていた。野々村は警察官として、そして何よりもひとりの人間として、この戦いに臨む覚悟を決めている。

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