第十二話 静寂の中の絆


 慌ただしく昼飯を終えて社員食堂を後にした野々村は、休憩室に向かった。百合子が彼に駆け寄り、心配そうに声をかけてきた。


「何かあったのですか?」


 野々村は先ほどの署長とのやり取りを思い出した。


 百合子は野々村と秘密の恋を育んでいた。


 彼女は野々村と同じ捜査一課で科学捜査班に所属している。その仕事は、殺人事件の現場で残された血液やDNA、薬物、毒物などの証拠を科学的に分析し、犯罪捜査を支えることだ。客観的な判断力と冷静さが求められるこの仕事に、百合子は適していた。


 一方では男社会である警察組織で、彼女は科学捜査の仕事を全うしながら、気丈に日々を過ごしていた。彼女はカップラーメンで昼食を済ませることもあった。野々村は彼女の強さと優しさに惹かれていた。


「だって、署内で大騒ぎになっていたから」


 彼女が続けて口を開いてきた。


 百合子のほんわかした笑顔が、野々村の緊張を和らげてくれた。彼女は、いつものように丁寧な言葉遣いで話しかけてきたが、その声には、彼の心情を察知したかのような深い憂いが感じられた。彼は、恥ずかしそうに頭をかいた。


「ああ、いつものことさ。気にするなって、こんなのは『屁の河童』だよ」


 野々村は軽口を飛ばしてごまかした。


 しかし、彼はふたりになった時に詫びるつもりだった。気丈な百合子にも、野々村しか知り得ない心の傷があり、彼女に心配をかけたくなかった。野々村は、暫し目線を遠く離れた左上に向けて、彼女の実家を昔に訪ねたことを思い浮かべた。



 ✺


 百合子の実家は、秋田県の三方を山々に囲まれた角館にあり、野々村は何度も訪れていた。彼は百合子の母親に結婚の承諾を得るために話し合いを重ねている。


 いつも比内地鶏を使ったきりたんぽやすき焼き、稲庭うどんなどの郷土料理でもてなしてくれた。三人で囲炉裏を囲み、夜が更けるまで、いぶりがっこを肴に秋田の地酒を酌み交わした。いずれもここでしか味わえないものだった。今でも、野々村の心には、かつて訪れた冬の角館の美しい風景が鮮やかに残っている。


 そこは、真っ白な深雪に覆われ、古い歴史を秘めた町並みが静寂な風情を醸し出していた。湯けむり上がる湖畔の城下町が静寂を保ちつつも、どこかほんわかした温もりを感じさせる。それは、まさに百合子のふたつの側面を物語っている。

 田沢湖の畔では、冬でも凍らない水面が、空と地を繋ぐ鏡のように輝いている。そこには、樹氷が咲く花のように切なく美しい光景が広がっていた。


 ところが、初めて訪れた時、彼は父親の殉職という過去を知った。父親は正義感あふれる刑事であり、覚せい剤のガサ入れで命を落としていた。母親は警察官の危険な現実を痛感しており、「警察官には嫁がせたくなかったけれど……」と涙ながらに伝えてきた。 


 野々村は線香を上げながら、同じ刑事として、ひとりの人間として、思わず目頭が熱くなり、涙を堪えきれなくなった。



 ✺


「百合子さん、いつもお茶をありがとうございます。これがまた美味しいだな……」


 安田は他の署員に気づかれぬよう、野々村と石田に目配せして口にした。彼はふたりの関係を知る唯一の人物であり、野々村とは何でも言い合える相棒だった。

 けれど、彼は、野々村に何度となく指摘しても、変わらぬ乱れた髪と伸びた髭を見つめて、「これだけはなんとかしてくれ」と言いたげに一瞬眉間にしわを寄せた。そして、微笑んだまま首を傾げた。


「そんなほうじ茶で喜んでくれるなんて、嬉しいわ。いつでも大歓迎よ。ただ、それだけは……」


 百合子もそう小声でつぶやくと、笑いながら小首を傾げた。野々村は彼女から彼が自分の父親と同じ匂いがすると聞いていたので、気にしなかったのかもしれない。


 しかし、一方で野々村は難題の事件を抱えると、見た目など気にせず、捜査に専念する姿勢こそが、彼女との関係を始めるきっかけになったことを誇りにしていた。

 その頃を思い出せば、百合子は父親の死や女性ならではのセクハラなど、過去に幾度となくつらい経験をしてきた。それゆえに、しばしば警察を辞めて、秋田の実家に帰ろうかと悩んでいた。


 正義感だけは強いやさぐれ刑事の野々村が百合子の相談に乗って、ふたりは愛を深めてきたのだった。彼は、結婚については彼女の母親の祝福を得たいと願っていた。


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