第5章/緑の熱風 第1話/人語を解す妖魔

   一


「ウフフ………まさか火焔の大道芸人が、こんなところにいようとは」

 女の湿った声が、闇に響いた。 

 いっせいに振り向いたウルクル軍の者たちが見たのは──

 闇に浮かび上がった女の裸身。

 ねっとりと白く光る肌に豊かな乳房、長い漆黒の髪。

 だが優美な曲線を描いているであろう腰から下は、なぜか闇に溶けている。


「予定外だったわね。それとも坊や…どちらの親が火の族の妖魔かい?」

「坊やじゃねぇよ、ミアトだよ! 妖魔ジンのおばさん」

 ミアトの抗議を無視し、女はあらわになった乳房を隠そうともせず、じっとアサド一人を凝視している。

 だが、その視線はあり得ない高さから送られていた。

 アサド達の遥か頭上、虚空から。

「おやまぁ…………いい男だねえ」

 アサドを見つめる、妖魔の言葉に湿り気が加わる。


「むむむ? おまえ、空を飛んでいるのかよぉ? でも羽音がしないなぁ」

「フフフ…我を羽根のある妖魔と思うてか?」

 ミアトの疑問を解くかのように、一陣の風がわずかに残った霧を一掃した。

 そして……。

 月光の中に現れた巨大な触手。

 固い剛毛に覆われた大人の胴体ほどもある巨大なそれは、その大きさに似合わない優美さでなめらかに動き出した。


 ───蜘蛛───

 巨大な蜘蛛が折り畳んで縮めていた脚をグッと伸ばし、地面に触れていた胴体を持ち上げると、白い女の肢体がさらに高い位置へと移動する。

 上半身は妖艶な女、下半身は巨大な蜘蛛。

 ファラシャトも、ヴィリヤーも、ウルクルの農民兵も、誰もが初めて見る異様な姿に凍りついた。

 屍肉喰らいグールやクトルブぐらいなら、たいがいのウルクル兵なら、一度ぐらいは見たことがある。

 だが、こんなに巨大な妖魔は初めてである。しかも人語を解し、語る妖魔。

 間違いなく、下位のザコ妖魔ではない。



   二


「ほう……こんな妖魔は初めてだな」

 周りの驚愕と恐怖も知らぬげに、のんびりとアサドが言う。

「あたしも、こんないい男は始めて見たわ。傭兵なんてみーんなムサくって、ゴツくって、品のない野郎ばかりだと思っていたけど……ほんとにいい男だこと…」

 聞く者の身体にねっとりと色香が絡みつくような、艶のある声が答える。

 妖魔の挑発的な声にも、だがアサドは無表情で切り返した。


「お褒めに預かって、少しだけ光栄…」

「それに、生気も強いじゃない? ……まるで真っ赤に燃える鋼のよう。身体の奥が濡れてくるわぁ……」

 アサドに向かって妖魔がソロリと顔を近づけて来た。半開きの口から覗いた舌がゆっくりと唇を舐める。

 アサドはゆったりと足を前後に開き、足の親指に力を込めた。

 いつでも跳躍できるように、踵は心持ち浮かしている。

「残念ながら、俺はあんたの役には立てそうもないな。趣味があわない」

「あら、謙遜することないわよ。あなた、とっても〝美味しそう〟だわ」


 女の顔が笑みを浮かべた。

 つり上がった口の両端がさらにつり上がり、そのままミチミチと音をあげて裂けはじめた。

 ビキッ……ミチミチミチッ…………

 裂けた頬の皮の下、巨大な乱杭歯が上下から伸びはじめる。

 口からは不気味な呼吸音がひっきりなしに漏れている。


 ……シュウ…ウ……シュウウウウ……シュハラアアア…………


「その口でしゃべれるのか? 蜘蛛の妖魔」

「心配は無用よ、傭兵……リーサンデ」

「何だと?」

「私の名前よ。リーサンデ、それが私の名前……」

「これはこれは……訊きもしないのに教えてくれて、ありがとう」

「……ククク。よほどのバカか剛胆か。まあ、どっちにしろあんたは動けないんだしね、ゆるゆるとその血潮を飲み干してあげようね」



   三


 妖魔リーサンデの声が響く。

 口はほとんど動いていない。口以外の別の場所から声を発しているようだ。

 リーサンデの言うとおり、アサドの周囲に張り巡らされた糸の量は他の者に倍し一部の隙もない。剣を抜くことさえ不可能に見える。

「ねぇ、動けない獲物に、ゆっくりと牙を立てたことある?」

「あんたのような立派な歯を持っていないんでね。そのうち試してみよう」

「もう最高よ。プライドの高い自信家ほど、恐怖が大きくってねぇ……」

 リーサンデの顔がアサドの喉笛に近づく。黒髪がバサリと顔にかかり、その奥から覗く眼に酷薄な笑みが浮かぶ。


「……それはもうみっともない、命乞いをするのよ。あなたはどうかしら?」

「さすがに蜘蛛だ。自分からは動かずに獲物が自滅するのを待つか」

「クックックッ、迷い込んでくる方がバカなのよ。男と女の仲も一緒でしょう?」

「なるほど、熱くなった方が負け……か」

 リーサンデの言葉に、妙に納得しているアサドに、

「大将、なに余裕かましてんだよっ! こんな糸ぶった切ってやる」

 ミアトが叫びながら短剣を抜くと、自分の周りに張り巡らされた糸の一本に切りつけた。

 カツーン!


 だが、目の前の糸は相変わらずそこに銀色の輝きを見せて存在した。

「な! 確かに手応えが……!」

 自分の短剣に目をやったミアトは愕然とした。

 剣の半ばから先がすっぱりと無くなっているのだ。

 その切り口の鮮やかさが、妖魔の糸の硬度を示していた。

「そんなオモチャ振り回すんじゃないよ、ぼうや」

 言葉を失ったミアトに、リーサンデのあざけりの声が降る。


 長剣であれば、当たる部位と角度によっては折れることもある。

 刃身の鍔から三分の一ぐらいが最も衝撃に弱く、折れやすい。

 だが、短剣は硬度に負けて弾かれることはあっても、真横からの衝撃を加えない限り折れることはない。ましてや、柔らかなチーズのようにこれほどスッパリと切れることなどあり得ないはず。

「どうだい? あたしの糸は……? え、坊や。ご自慢の火焔でも吹いてみる?」



「だ~めだ、こりゃ。大将が自分で始末してよ! チェッ、これ気に入ってたのにさぁ……」

 使い物にならなくなった短剣を未練げに見つめてから放り出し、ミアトが毒づいた。

「ホォ~ホ、ホ、ホ、ホ」

 わざと間延びさせた妖魔リーサンデの嘲笑が闇に響く。

「坊やがどうにもできない物を、他の人間どうにかできるはずないじゃないかえ?」

 侮蔑を含んだリーサンデの言葉を無視するように、アサドはゆっくりと背中の長剣を抜いた。


 ヒュンンンッ!


「な……!」

 アサドの剣が煌めくたびに、彼の周囲に張り巡らされていた蜘蛛の糸がピンッピンッと硬質の音を発しながら切れていく。



   四


「バ…バカな! 私の糸が?」

 アサドの剛剣に両断された糸は、頼りなげにふわふわと風にたなびき、消えてゆく。

「フンッ!」

 最後の一本を切ったアサドは一気に妖魔リーサンデとの距離を縮め、その心臓めがけて剣を一閃した!

「クオオオッ!」

 しかしリーサンデは予想外の素早い動きで後退してアサドの剣先をかわし、その巨体は中空に飛び上がった。


 驚くべき跳躍力。

 リーサンデが落下する瞬間を狙って、アサドはサッと剣を構える。

 だが、予想に反して妖魔の巨体は中空の一点で静止した。

「なるほど…巣を張っていたのか。用意周到な奴だ」

 左右の岩山を利用して張った蜘蛛の巣。蜘蛛の妖魔はその巨大な己の巣の中央に陣取ったのだ。

「さて、どうする? そんな所で待っていても獲物は迷いこまんぞ」

「ふふん、巣を張る蜘蛛だけが蜘蛛じゃないわよ」


 アサドの挑発を無視するように、蜘蛛の妖魔は高見から彼を見下ろしていた。

「しょうがない……。ミアト、こいつを丸焼きにしろ」

「まかしとき!」

 ミアトが大きく息を吸い込んだ瞬間、蜘蛛の妖魔の口から糸が吐き出された。

「うわっぷっぷっ! なんだこりゃ?」

 アサド達を捕縛していた硬い糸とは異なり、ねっとりとした粘着質の固まりがミアトを直撃した。



■第5章/緑の熱風 第1話/人語を解す妖魔/終■

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