第5章/緑の熱風 第2話/境界に立つもの

   一


「けっ、つまんねえマネしやがって。こんなもんはなぁ…なぁ…。んと……あれ? れ、れれ、れ?」

 なんと最初はゾル状だった糸は、急速に硬度を増してミアトの身体をガチガチに固めてしまったではないか。

「どう、身動きできないだろ? 今度はその小生意気な顔にブチかけて、窒息させてやろうねぇ……」

「か…顔はやめて! オレの希望は綺麗な死体なんだから…」

 その場の状況にそぐわないふざけたミアトの言葉に、ファラシャト達が思わず呆れた時、微かな笑いを含んだアサドの声が響いた。


「ずいぶんと余裕があるじゃないか? ミアト」

「え~だってぇ、大将が何とかしてくれるんでしょ?」

「……動くなよ」

 ミアトの目が、にんまりと三日月型に笑う。

 閃光一閃

 ミアトの言葉どおり、アサドが振り下ろした剣はその小さな身体を傷つけることなく、妖魔の放った粘着液の層のみを切断していた。


「まったく、おまえはこの非常時に……」

「ありゃ、大将、怒った?」

 アサドはミアトの胸ぐらをグイッと掴むと、

「おまえのような奴は……こうだ!」

 一気にミアトを中に放り投げた。


「あらよっと!」

 空中に放り出されたミアトは、しかし、すばやく身を反転させると姿勢を立て直した。

 バサッサッ……あたりの大気を破るように、大きな羽音が響く。

「なにぃ? おまえはまさか……」

 妖魔リーサンデの口から驚愕の声が漏れた。

「ど~おぉ、けっこう高貴な翼だろ?」

 ミアトの背中から出現した翼が力強く羽ばたき、小さな身体はアサドに放り投げられた位置より、軽々とさらに高みへと登ってゆく。



   二


「キヒヒ…」

 自分の姿を追って遥か上を見上げるリーサンデに向かって一瞬、ミアトは笑みを送った。

 愛らしい少年の笑顔は、だが今はゾッとするような禍々しさを含む。

 いっきに空気を吸い込んだその胸郭が膨れ上がり、可愛い口がパカリと開く。

 次の瞬間、

 ゴワオォッ……!!!

 巨大な火焔が、リーサンデに向かって放出された。


 先程の炎とは比べ物にならない、圧倒的に巨大な火焔。

 一瞬にして虚空の妖魔の身体を包んだ炎は、その身体を下り降り彼女が陣取る銀糸の巣の上を焼き尽くした。

「グ……アアアア…アアア……アギアギエオアラアア…………」

 絶叫を発してリーサンデは地面にたたきつけられた。

 あれほど白かった肌が、見る影もなく焼けただれている。髪や皮膚が焦げる強烈な臭気を発して、妖魔は地面にうずくまった。


 あまりにすさまじい光景に圧倒され、ファラシャト達は身じろぎもできず見つめるばかりだ。

「か……はあ!」

 肺にたまった空気を吐き出すと、八本の足をそろりと動かして、妖魔リーサンデは体勢を整えようとした。

 だが、ミアトの火炎攻撃の威力は、この妖魔の

「う…あ、ち……畜生ぅ! 〝境界に立つものニーム〟め、降りてこい!」


 境界に立つもの──妖魔と人間の間に生まれた、忌まれる者。

 多くは、父親か母親のどちらかの能力を受け継ぎ、外見も人型であったり、妖魔の外見である。

 その能力は、純粋な妖魔の半分かそれ以下である。

 なのにミアトの火焔攻撃は、人語を解する上級の妖魔リーサンデに、瀕死のダメージを与えている。

 ありえない威力である。

 大神官ワディとアサドの、謎の会話の理由が、これだったのだ。



   三


「へへーんだ、誰が蜘蛛のドロドロ唾液を喰らいに、降りていくかよバーカ」

「生意気な小僧め、我ら眷属を裏切ったのは父親か? それとも母お……グゲア?」

「どこを見ている? 敵はミアトだけじゃないんだぞ」

 アサドが血刀を手に、リーサンデのすぐ脇に立っていた。

 彼の足下には、たった今切断された蜘蛛の右足が三本……。

「左右で数がそろわねば、歩き難かろう?」


「ギャァァァ!」

 リーサンデの絶叫と共に、今度は左足が三本切断された。

「ききき……さまああああ……」

 充血した眼でアサドを睨みつけながら、それでも妖魔は残った二本の足で立ち上がろうとした。だが、その巨大な腹部はピクリとも動かなかった。

「ずいぶん重そうだな? それも斬ってやろうか?」

「くく……あたしをなぶるか傭兵隊長!」

「動けない獲物をジワジワと襲うのは最高なのだろう? どうだ、自分がやられてみるのは」

 表情ひとつ変えずに、アサドは冷めたく言い放つ。


「……闇の主シャイターンの元へ還るがいい、妖魔リーサンデ」

 ゆっくりとアサドが剣を構えた。

 リーサンデの身体から血と体液が流れ出し、と同時に妖力が徐々に失われはじめた。

 巨大な蜘蛛の下半身が行く縮んで行く。

「お…まえ…ただの傭兵では…ない…な」

息も絶え絶えに、半身を露にした妖魔が問う。

「なぜ、そう思う?」

「おま…えに…斬られた脚が再生しない……。並の剣では…そんな業は不可能…だ。そ…の剣は…」

「この剣は?」


「シャアアッ!」

 不意にリーサンデの腕が一気に数倍の長さに伸びた。

 アサドはとっさにかわそうとしたが、一瞬速く鋭い右手の鈎爪が彼の喉笛に食い込み、妖魔の左手はアサドの剣を握る右手首を制する。

「大将!」

「動くな! きさまらが一歩でも動けば、この男は死ぬぞ……」

 リーサンデの言葉に、ミアト達の動きは瞬時に止まった。




   四



「……今のあたしにはおまえを殺しても、ここから逃れる体力は残っていない…」

 苦しい息の下から、リーサンデはアサドをねめつけて言葉を発した。

「でも、あたしはまだ死にたくない……ならば……おまえを人質にして…逃れるしか手はなさそうだ」

「殺されるのも、人質になるのも嫌だな」

「ククク……あたしが右手にわずかばかりの力を加えれば、おまえは死ぬんだよ。どうやるつもりだ。ご自慢の剣も使えない……」

「では、こうしよう!」

「ひぎ?」


 アサドの真後ろにいたミアトやファラシャトには、いったい何が起こっているのか、見えなかった。

 だが、アサドの喉元から大量の血が吹き出すのが見えた。

 アサドがやられた?

 ファラシャトはとっさにそう思った。

 だが彼、アサドの身体は瞬時に右に移動すると、リーサンデの腕に自分の剣を蛇のように絡め一気に跳ね上げた。

 肘の裏側あたりから鮮血をほとぼしらせて、リーサンデの左腕は切断されていた。

 いや、左腕だけではない。

 振り向いたアサドの喉笛にリーサンデの右手がぶら下がっていた。


 アサドの口から胸元にかけて、血にゾップリと濡れている。

「手、手、手……あたしの手ぇぇぇっ!」

 手首から先のなくなった己の右腕を見ながら、リーサンデは絶叫していた。

「あ…あたしの手を…喰いちぎったな!」

「さっき言っただろう? そのうち試してみると」

 口に残った肉片を吐き出しながら、静かにアサドが言う。

「人間の体を喰いちぎることはあっても、人間に噛みつかれたのは初めてか?」

「お……おお…お…おまえ……殺してやる……殺して…フゴガッ?」

 ふいに、リーサンデの声が途絶えた。


 妖魔の両眼は自分の口に深く差し込まれたアサドの長剣を、凝視していた。

「よく動く口だ」

 アサドが剣をスッ…と横に薙ぐ。

 ヌラリとした血液と唾液を絡ませ、妖魔の頬から耳の下にかけての肉が裂けた。

「教えておいてやろう……」

 アサドの長剣がゆっくりと、頭上に振りかぶられた。

 今まで片手で操っていた剣を両手でしっかりと握っている。

「敵は殺せるときに、確実に、躊躇なく殺せ!」

 ほとんど剣先がアサドの尻に触れんばかりの位置に来た時、白い光の尾を引きながら長剣が翻った。

 リーサンデの脳天から蜘蛛の胴体までを一気に両断した剣は、そのまま地面まで切り裂いて、ようやく止まった。


「それが狩人の鉄則だ───」


■第5章/緑の熱風 第2話/境界に立つもの/終■

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