第3章/白き神官 第7話/最高司令官到着

   一


「だいぶ、苦戦したようじゃのう」

 老人の、柔和な声が天幕の中に響いた。

 だが、その声の柔和さが、かえって場の緊張を高める。

 イクラース将軍……アル・シャルク北方方面軍の最高司令官。

 齢六十の峠を越し、なおも戦場にその身を置く武人である。

 声のとおりの柔和な好々爺であろうはずが、なかった。


「兵の被害は、たいしたことはございませんでしたが、その……」

 口ごもる武骨な顔立ちの若い准将に、将軍の視線が向けられた。

 足首まであるゆったりした長衣に腰帯を締め、上着を羽織っている。頭には砂漠の強烈な日差しを避けるための被り布。

 それは元は白色だったのだろうが、永い軍旅に擦り切れて黄ばんでいる。汗と垢がしみこんで、すえた匂いがしそうだ。

 大国の遠征軍の総司令官の旅装というよりは、長年砂漠を旅して糧を得ている商人か、老いた農夫のような姿だ。


 将軍は幕舎の中であるにも関わらず、旅の装束を解こうともしない。

「なんじゃ? 隠さずに申してみよ、ラビン准将」

「は、バルート副指令が…その……戦死なされました」

 しばしの沈黙。だがラビンの答えをまるで予期していたかのようにその柔和な表情に変化は無い。

「──して、ウルクル軍の戦法は?」

「馬を使用した高速機動戦法です。側面からの迅速な展開による本陣襲撃と、その後の迅速な退却によって敵に名を成さしめてしまいました」


「ほぉぉ……この中原の地に馬を使いこなす部隊がいたとはのう。アル・シャルク本国以外では始めて聞く」

 草原の国であるアル・シャルクには遊牧の民が多く、当然騎馬隊も編成されている。

 それでも、未だ遠征軍に常設するほどには普及していないのだ。

「我が軍が到着するまでの僅かの期間に、高度な技術を要する騎馬部隊を養成できるはずもない……とすると、傭兵部隊かの?」

「ご慧眼です。傭兵隊長はいまだ若い男でした」

「傭兵風情が、短期間で習得できる戦術ではないのう」

 イクラース将軍はその傭兵隊長に興味を示したようだ。



   二


 傭兵は、喧嘩は強いが戦争は弱い。

 意外にもこれは事実である。

 組織を構成する個々の身体能力だけを比較すれば、圧倒的に傭兵が強い。元は農民の徴兵など、比ぶべくもない。盗みや殺しの現場をくぐってきた修羅場の経験から、個々の戦い……喧嘩ならば、無類の強さを発揮する。

 だが、組織的に訓練された正規の常備軍と戦争になったら、寄せ集めの傭兵部隊は確実に敗北するのだ。

 千人以上の人間が動員される戦いの場合、組織としての機能性こそが勝敗の帰趨を決める。

 すなわち高度に訓練され、なおかつ実戦で鍛えられてきたアル・シャルク北方方面軍が、戦力敵に圧倒的に劣る傭兵部隊に翻弄されることなど、本来あり得るはずがないのだ。


「ラビン、貴公は敵の傭兵隊長をどう見た?」

「わかりません」

 ラビン准将は即答した。

 若年ではあるが聡明なこの男が、わからない、と言う。

「……ほう、わからぬ…か? 意外な返答じゃのう。敵を過大評価するのも危険じゃが、過小評価するのもまた危険。貴公の冷静な分析の結果がわからぬ…か」

「はい、わかりません。ただ……」


「ただ?」

「どう見ても急遽駆り集めたとしか思えぬ農民兵が、異様な長槍と今まで見たこともない飛距離の強弓を装備しておりました。さらに、おそらくは短期間で訓練されたはずなのに、組織的な集団戦法を駆使する……これがあの若い傭兵隊長の手腕だとすれば、底知れぬ不気味さを感じます」

 若くして准将に抜擢されているだけあって、ラビンの分析は冷静で客観的であった。

「ふむ……とすると、今後は野戦での総力戦には、打って出て来ぬか」

「さよう徹底的に守りを固めて、こちらの消耗とその後の撤兵を待つつもりでしょう」

 イクラース将軍の考察もまた見事だった。


 敵の力量を的確に測ることができなければ、常勝将軍の名声は得られない。

「ひとつ、敵の力量を見るかの。ラビン殿、儂とおまえだけで偵察じゃ」

 そう言うと、将軍はヒョイと立ち上がった。

「しかし、たった今到着されたばかり、しばしご休息が必要かと…」

「戦場でのんびり休むほど、れてはおらん」

 最初からそのつもりで、旅装束を解かなかったのであろう。さっさと天幕を出て行くイクラース将軍を、ラビンはあわてて追いかけていった。



   三


 馬上の老将軍は、壮年の兵のように軽やかに歩を進めて行く。

 高低差のないこの地では、遥か遠方にあるウルクルの城塞も、地平線の上にくっきりと突き出して見える。

 しかし目標物ははっきりしているのに、なかなか近づいてこない。

 しだいに距離感があやふやになり、まるで砂漠の蜃気楼に向かって進んでいるような、奇妙な感覚にとらわれる。

 イクラース将軍自体が、妖魔ジンにも蜃気楼に見える。


「ほお、城の周りに塹壕ざんごうが掘ってあるの」

「塹壕……ですか?」

「うむ、城の堀の周りに人間一人が隠れられるような、穴が掘ってあるじゃろう。あれが塹壕じゃ」

「かような物が、いったい何の役に立つのでしょうか」

 初めて見る奇妙な仕掛けに、ラビンは率直な疑問を口にした。


 彼の疑問も当然であった。

 たかだか地面に掘った穴が、どのような効果を生むというのか。

「わからぬか? では実際にあの塹壕がどのように掘られているか、つぶさに検討してみようかのう」

 年齢に見合わぬ身軽さで馬上からヒョイと降りた将軍は、地面にガリガリとウルクルの城邑と塹壕の配置の模式図を書き始めた。


「塹壕は城を取り囲むように三重に掘られておる。しかも、少しずつ位置をずらしてあるので、城に直線的に駆け寄ろうとしても、必ずどれかの塹壕が進撃を邪魔する配置になっておる」

 いぶかしげに将軍の手元を見つめていたラビンの眼が、クワッと見開かれた。

 彼はあの穴が、どれほどの効果を生み出すのか、一瞬にして悟ったのである。

 もし、アル・シャルク軍得意の戦車部隊による攻撃を仕掛けたらどうなるか?

 塹壕と塹壕の間隔はアル・シャルクの戦車がぎりぎり通れない幅になっているのだ。



   四


 不用意に突撃すれば車輪が塹壕に落ち込み、戦車は平衡を崩して転倒。最悪の場合、兵馬に大損害を出す。

 歩兵を大動員した突撃は?

 直線的にウルクルの城に突撃できない以上、兵の動きに統率がとれなくなり、混乱が起こるは必定。

 たとえ、塹壕の位置を把握した上で兵を訓練して迅速に突撃したとしても、移動速度は半減してしまい、ただでさえ機動力に劣る歩兵にとって、敵陣地での緩慢な作戦展開は命取りになる。


「ウルクルの高性能な弓の存在を考えると、塹壕付近での我々は、ちょうど良い標的になってしまいますな」

 ラビンの言葉に、イクラース将軍は軽くフムと頷いた。

 最小限の兵力で、己に十倍する兵力と戦うとき、これほど完璧な戦力がありえようか。

「ウルクルとしては、この戦は負けねばよい。じゃが、我らは勝たねばならぬ。この差は大きいのう…」

 かすかな溜息をつきながらのイクラース将軍の言葉に、今度はラビン准将が深く頷いた。


「ここ五年来、正攻法でしか戦をしてこられませんでしたが、元々搦め手での戦略は将軍が一番の得手とされるところ。策はおありでしょう?」

 ラビンが将軍に期待に満ちた眼を向けた。

「まあ、な」

 答えるイクラース将軍の声がどこか楽しげだ。

「何しろ、この塹壕戦は昔、アル・シャルクの将軍が考えた戦法じゃからのう」

 将軍の意表をついた言葉に、ラビン准将は不意をつかれた。


 言われてみれば、馬を用いた戦車戦術に長けたものでなければ、思いつかない対応策である。

 驢馬の兵しかいないウルクル軍には、想像すらできないであろう。

 ここでふと、脳裏に浮かんだ疑問を、ラビン准将はイクラース将軍に問いかけてみた。

「──して、この塹壕戦術を考え出した、アル・シャルクの将軍とはいったい?」

「ん? ああ……儂じゃよ」

 こともなげに呟いた老将軍の背中を、ラビン准将は絶句して見つめるしかなかった。


■第3章/白き神官 第7話/最高司令官到着/終■

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