5-6

「コンサート、楽しかったね」

「そうだな」

 居間でチェスをしながら二人は会話する。

 さっきまで七瀬と三人で過ごし、秀明はキッチンで料理中の冴と龍介の愚痴をこぼす七瀬の話を聞き、談笑していた。それがあらかた喋り終えたと七瀬が感じた頃、冴の料理が完成し三人で夕食を囲み、やがて七瀬は帰宅していった。龍介はちょっと遅くなると連絡が入り、今夜は久しぶりに秀明は冴と二人きりで過ごしている。

 チェスは読書と並んで二人の共通の趣味であり、日常的に遊んでいる。秀明が黒、冴が白。いつの間にかそう決まっていた。

「なかなか盛り上がって」

「コンサートだかライヴだかっていうのは初めてだったが、なかなかいいもんだった」

「実可子ちゃんもかっこよかったね」

「そうだね」

 終盤、バラードで実可子たちストリングス集団が現れ、その中に実可子がいた。夕馬の心象風景に現れた実可子はやはり多少美化されていたが、しかし可愛い女の子であることは間違いなく、秀明はすぐに実可子が実可子であることがわかった。彼女の心理にも多少興味はあったが、その頃には秀明もコンサートの雰囲気にやや酔っていたのかあまり読み取ることはできなかった。ただ、少し感応してみたところ夕馬のことなど全く考えていなかったことははっきりとわかった。ステージの上の彼女の表情は真剣そのものだったし、いまこの場においてはそれどころではないということだろう。

「ヴィオラを小さい頃からやっていたってことだけど」と、冴。「ちょっと調べてみたけど、大体のヴィオリスト? は、ヴァイオリンがあんまり上手くない人が転向してなるみたいね。全員かどうかはわからないけど」

 実可子は通っている音楽教室で相当な腕前であることから今回真桜のステージにメンバーの一人として呼ばれたらしい。地元で即席のメンバーを集めたということのようである。今後彼女が音楽の世界で生きていくのかどうかは秀明にはわからないが、しかし、中学生ながらに好きなことで金を稼げるというのは憧れるところであった。頑張ってほしい、と、思う。しかしあるいはその音楽の能力によって夕馬が彼女に好意を抱いたという側面もあるわけだから、やはり有名人になるということは面倒な目に遭うこととほぼ同義なのだろうとも思い、まだ中学生の彼女が、そしてまだ高校生の真桜がこれからの仕事人生に対応できるだろうかという心配もあった。

 だが、作家になる夢を叶えた者たちの無数の本を読み続ける秀明にとって、それで潰れるならそれで潰れるだけの器だということはよくわかっている。それが結局のところ趣味と仕事の違いだ。

 好きなことや得意なこと、やりたいことで金を稼ぐためにはある種の達観や諦観が必要不可欠だ、大切なものや大事なことを諦めたり割り切ったりすることを自分自身に許容しなければ生活の維持向上は不可能だ——などとそんなことをぼんやりと考えながら、秀明は冴の言葉に反応する。

「よっぽどヴィオラが好きなんだろうな。俺にはヴィオラの音は聞き取れなかったけど」

「聞こえてはいるけど識別ができてないってことなんだろうね。バンドのベースの音も同じ」

「そうなんだろうな。音楽をやっている人なら区別できるんだろうが」

「あなた音痴だものね」

「まあね。いまさら恥じる気はないがね」

 駒をどんどん進めていく。ゲームが始まってから二十分、もう白の駒は半分になっていた。冴はチェスが弱いのだ。

「私のことはどうなっているのかしらね」

 なにを言いたいのかはわかってはいるが、一応秀明は訊ねる。

「なにが」

「私の心を読まないこと——それが、私たちが一緒にいるためにあなたと交わした約束」

「問題ない」

 秀明はあっさりと答えた。

「そう」

 特になにも気にすることなく冴は駒を動かす。

 秀明は説明する。

「別にテレパシーにプロテクトみたいなものがかけられるわけでもないし、そういうことをするためのプログラムができるわけでもないみたいなんだがね」

「私がそばにいるときはそもそも窓を開けない」

「最低限、姿を認識しているときはね。俺もまだ超能力を使いこなせていないから区別や識別がどうとかいうのも言葉で説明するのは難しいんだが」

「それでいいよ。ありがとう」

「こっちのセリフさ」

 と、秀明はまっすぐ冴を見つめる。その目に冴も応える。

「お前がいなかったら、俺はきっと、もっと乾いた人間になっていたと思うよ」

 見つめられて、見つめ返す。

 いま、冴がなにを考えて自分を見ているのか、秀明にはわからない。

 だが、それでいいのだ。

「人間は社会的動物だ。真の孤独は死を招く」

「ひもじい、寒い、寂しい、の次に、死があるって前読んだわ」

「その通り。だから——」

 秀明は微笑んだ。

「ありがとう」

 冴も笑う。

「どう致しまして」

「というわけで、王手」

 秀明のナイトが冴のキングを捉えた。秀明はいつも「王手」と言う。

「あっ」

「勝負あったな」

「残念、いい線いったと思ったんだけど」

「爺さん仕込みの俺のチェスを甘く見てはいけない」

 ちょっとため息をついて、冴は言った。

「今度は絶対に勝つよ」

「いいね。そういう心意気が大切さ。さて」と、秀明は腕を天井に伸ばす。「今日もいい一日だったね」

「そうだね。いい一日だったね」

「また明日も冴の良き日であるように」

 冴は微笑んだ。

 秀明の目をまっすぐ見て、応える。

「そうだね。だから、あなたもどうぞ良き日を」

 そして、再び朝がやってくれば、また新しいシャハシュピールの一日が始まっていく——。


 でもそれは、別のお話。


 秀明は誰にというわけでもなく一人呟いた。

「神は天に在り、世は全てこともなし——かな」


〈了〉

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箱庭の魔法使い-Snail and the Angel- 横谷昌資 @ycy21M38stc

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