5-4

「お。龍士、来てる。おーい」

 と、龍介はぼんやりと佇んでいる龍士のそばへとてとてと近づいていった。龍士は彼に気付き、おう、と返事をした。

「待った?」

「いや。いま来たとこ」

 龍士の表情は“複雑”だった。期待と不安が入り混じり、メールのことはどうなっているのだろうという恐怖と焦燥感、ずっと会いたいと思い、願い続けてきた真桜との再会、いやたとえ実際の再会が叶わなかったとしてもそれでもほんのひとときでも一緒の時間を過ごし同じ空間にいられるという現実。様々な感情が彼の中で複雑に湧き起こり、それでも元気のない自分を心配してくれる友達に感謝し、自分は決して独りぼっちなどではないという確信が、龍士をいまここ文化ホールの入り口に立たせている。

「彼女さんと」

 と、龍士は七瀬に会釈したのち秀明と冴を見て、

「こんにちは。古賀です」

 そう挨拶し、二人も挨拶を返す。

「藤原冴です」

「柾屋です。龍の上司だね」

 これで一通りの自己紹介が終わり、龍介は龍士とペアになろうとする。七瀬としてはちょっと面白くない気持ちもあるが、それでも友情を大切にする龍介を悪くないとは中学生時代から思ってきたことでもある。

「じゃあ行こうか」と、秀明が先導しようとしたがふと思いつく。「でも、もう開場済みだけどあと二十分は時間があるね。どうしようか」

「冴、あたしたち先に行ってる?」

 そう訊ねる七瀬に秀明は心の中でちょっと目を丸くする。龍士の精神に興味が湧いた秀明は、事前に冴にホール内で別れることを要請していたのだ。だから七瀬が先立って動いてくれるなら好都合だと思い、なかなかタイミングのいい女だ、と、秀明は七瀬に心の中でグッドサインを示した。

 秀明の希望通りに事が動いていることで冴はあっさりと、うん、と頷いた。

「秀明。私たち先に入ってるね」

「了解。席のことは気にしなくていいよ。適当に座るから」

「うん。じゃ七瀬、行こう」

 そして男女で別れ、男たち三人はホールに入っていく二人を見送ったのち顔を見合わせる。

「といっても外に屋台があるわけでもないんだがね」

「いいじゃないすか。今日はいい天気だし」と、龍介は雲一つない春の青空を仰ぐ。「いい天気だなぁ。コンサート日和だ」

「屋内でやるんだぞ」

「先輩、細かい。なんか飲みましょうよ」

 と、三人は自販機まで歩いていく。

 自販機でそれぞれ購入し、その場で飲み始める。

「いいね炭酸は。やっぱコーラっしょ」

「炭酸が好きな理由はなんだい」

「いやそんな改めて訊かれることじゃ。先輩はいつもコーヒーっすね」

「俺がコーヒーを愛している理由を説明しようか」

「また今度」

 一方で龍士は黙ってオレンジジュースを飲みながら、そわそわしている。

(真桜)(もう、この建物の中にいるんだ)(会いたい)(楽屋に行けば)(でもダメだ)(俺が一人前の絵描きになって、それから会いに行く)(自分で決めたことだから)(でも、夜、どうしても描けなくて)(本領発揮)(自分の実力は精一杯出せているのだろうか)(こんな病気でなければ)(真桜がいつもそばにいてくれて)(また会いたい)(たった一人の妹)(メール)(イタリア)(絵)(いまからコンサート)

 龍士の心をまさぐった秀明は、自身が夜盲症であることと真桜に会いたくても会えないことがどのように結びついているのかをいまようやく知った。

 いまの自分の力が全力であるかどうか、ということに龍士は疑問を抱いている。真夜中に認める手紙が本気の内容であるのと同じように、暗闇の中で描くことのできない自分は本気の全力を出せていないかもしれないと思っている。いまの自分の絵がどこまで通用するのかを疑っている。秀明が思うに、絵の師匠がイタリアへの修業を勧めるぐらいだから実力と才能自体はあるのだろう。実際にいくつかの賞を取り根拠のある自信もちゃんとある。それでも、二十四時間絵に取り組むことができるわけではない自分に嘆いていた。そしてそれが真桜との再会を果たせないことに繋がっている。龍士は、いまの自分には真桜に会うために自分に科した約束を果たせないことを悔しがっていた。そんなこと気にしないでとっとと会えばいいのに、とどうしても秀明は思ってしまうし、龍士本人もチャンスがあるのであれば会った方がいいのではないかと思ってはいるのだが、それでもダメだった。それは龍士の絵描きとしてのプライドが許さなかった。

 もし秀明が龍士から相談を受けたら、そんなこと言ってももしかしたら一週間後に突然死んでしまうかもしれないのだから会える内に会った方がいいよ、などと応える準備はできている。しかしおそらく龍士が秀明にそのことで自分に助けを求めることはないだろう。今日がはっきりとした初対面だし、相談事をするような関係性になどまるでなっていない。だから龍士は友達の龍介には助けを求められるはずだったが、だからこそ龍士は“会える内に会った方がいいよ”というアドバイスをされることを危惧していた。それでは心が動いてしまう。決心が揺らいでしまう。そうなったとき、彼は自分の絵描きとしてのプライドが崩れてしまうような気がしていた。

 芸術家の思考回路はよくわからない、と、秀明は心の中で半ば呆れた。でも、それでもこれまでたくさんの人々の心を読み続けてきた秀明にはよくわかっていることでもある。

 若者は一生懸命で、全身全霊で、猪突猛進で、二者択一だ。

 結局龍士も、自分たちと同じまだまだ高校生の子どもであるということだった。

「それにしても真桜のやつ、無料なんて本当にいいのかな」ちょっと思いついたことを龍介は言ってみる。「凱旋記念コンサートってことだけど」

「この辺に住んでたのかな」(その通り)(この街で一緒にいたんだ)「龍介の地元が故郷じゃないんだな」(この街から、出ていって)

「つまり俺んとこの街に引っ越してきたってことだよね」

 龍士は真桜と龍介が中学時代の同級生であることを知らされてはいるがそれについての言及はほぼしていない。もしもそうしたら自分と真桜が双子の兄妹であることも言わなければならないからだ。そうしたらおそらく龍介のことだから“お節介”を焼き始めるに決まっている。だからそれは避けなければならない、と危惧していた。

「真桜のやつ、俺のこと覚えてるかな」

「ほんの数ヶ月前まで一緒だったんだろ」

「いやぁ、夢が現実になって、忙しいだろうし。なんてったってミュージシャンと作家とイラストレーターだもんなぁ。すげぇよなぁ」

「ミューズの神々に愛されてるんだろ」

「ミューズ?」

「ギリシャ神話だよ」

 という秀明の説明に、龍介は、ああ、と頷く。

「龍士、そういう話好きなの?」

「いや、たまたま知ってただけ」

 芸術家が神話とか伝説とかといったものに博識であるということはないとして、しかし龍士はそういう話を好んでいる。

「兄貴も絵を描くって言ってたから、アーティスト一家なのかな」

(俺のことだ)「さあ」(親は普通)

 そこで龍士は両親の離婚のことを思い返した。

(あの二人は離婚した)(ちょっとした喧嘩のはずだった)(それが解決できなくて)(大喧嘩になって)(離婚するほどのことか)(なにを買うだの買わないだの)(そんなくだらないことで)(俺と真桜は離れ離れ)(本当に、なんでそんなことで)

 父親の希望した買い物を母親が拒み、そこから話し合いになったが互いに激昂し、ついに離婚するまでに至ったという回想を読み取り、秀明は龍士と真桜に同情した。細かな詳細までは龍士も思い浮かべなかったが、確かに(そんなこと)で二人は離婚したようである。

 でもわからないでもない。人生はなにがあるかわからない。一寸先は闇。どんなに仲が良くても愛し合っていてもダメなときはダメになる。人間関係は必ずしも双方の努力の問題とも言い切れない現実。運命を司る神のちょっとした手違い、としか言いようのない悲劇が起こる可能性は誰にでもある。

 だからと言って、それを“しょうがないよね、だって、そんなものだもの”と思えるほど秀明は達観していないし、諦観していない。テレパスとして生まれ、朗らかな笑顔を振り撒いている人間の邪悪で陰湿な心というものを読み取る一方で、気持ちの優しい勇気ある誠実な人間というものもこの世界に確かに存在していることを秀明は知っている。人間の心の奥底には深い闇がある、というのは確かにその通りだが、だからと言って闇がその人の全てではない。闇もあれば光もある、ただそれだけのことだ。そもそも、普通の日々を普通に生きている普通の人間であれば、別にテレパスでなくとも人間の心に闇があることなどみんなわかっているはずだと秀明は思う。人間とは、“深い闇”の一言で語れるほど甘くないし、そんなに単純な生き物ではない。

 “いい人”というのは確かに存在している。

 例えば龍介は“いいやつ”である。

 それが、ダメなときはダメになる——それが、人生いろいろ、ということだと、秀明は現実の世界を受け入れている。

 それだっていまの高校生の自分なりに、というだけだ、ということも、ちゃんと受け入れているのだった。

「じゃ、まあ、そろそろ行くかい」

 と、秀明は二人に訊ねた。もう開始十分前だ。

「あ、はい。じゃ、行こうか」

「おう」

 空き缶をゴミ箱に入れ、そして男子三人もホール内に進んでいく。

(もうすぐだ)(もうすぐ真桜に会える)

 会場の中ホールへと向かいながら龍士の期待と不安はどんどん高まっていった。秀明はそんな龍士の想起域を覗く。

 様々なイメージ、想念、事象事物が存在する複雑な意識の中、龍士と真桜の、両親に離婚の危機が訪れ、いよいよ離れ離れになるという日の前日のとある会話を発見した。龍士が何度も反芻している思い出だった。


「ノアの方舟の話を知ってる? 真桜」

「まあ、大体のストーリーぐらいは」

「そう、大体のストーリーっていうのはつまり、地上は悪い人間だらけの世界になってしまった、それを見かねた全知全能の神様は善人ノアに世界を任せる。大洪水を起こすから、それに備えて方舟を作らせ、生きとし生ける動物を雄と雌、一匹ずつ方舟に乗せ、そしてノア一家もそれに乗る」

「ノアたちが方舟を作ってる最中、悪い人間たちはノア一家を馬鹿にしてたんだよね」

「そうだよ。神が一方的な裁量で判断した“悪人ども”がね。で、まあ、ノアたちは方舟に乗り込んで、そして神は地上を洗い流す。結果、地上の世界は終わった……方舟の中の者たちを除いて」

「怖いよね」

「そして世界は完璧になったと神は言う」

「完璧な世界ねぇ」

「あるいはその後、バベルの塔なんてこともあった。神を超えようとした愚かな王様。怒った神は地上の人間たちの言語をバラバラに」

「言語のルーツって、その辺なのかな?」

「そしてやっぱり、世界は完璧になったと神は言う。要するに、神様は世界が自分のお気に召さない方に動いたらとにかく混沌を招くことで逆に完璧な姿にしようと思っているんだな」

「なぁに兄貴。画家の夢を捨てて学者にでもなる気?」

「ううん。ただちょっといろいろ考えてただけだよ」

「なにを?」

「さあ。何だろう。それを考えたいのかもしれない。もしかしたら、何にも考えたくないのかもしれないな」

「明日から私たち、離れ離れになっちゃうんだもんね」

「そうだね。くだらない理由でね」

「私たち、もう会えないのかな?」

「さあ。でも、真桜が俺に会いたいと思うのなら、俺も真桜に会いたいと思うよ」

「そうだね。その頃には私たち、夢を叶えてるといいな」

「お互い有名人になる頃は、大人になってる」

「そしたら禁止事項なんて関係なく会いたいときに会えるね」

「俺が絵描きになって」

「私も歌手になって」

「そしたらまた一緒に暮らそうか」

「ファンがたくさん増えて、印税とかじゃんじゃん入ってくる」

「そしたら私、また兄貴にアップルパイ作ってあげる」

「じゃ、俺は炊事洗濯掃除に、ええと」

「あはは。……いつか、そんな日が来るといいよね」

「来させなきゃ。だって俺たち、双子なんだぜ。一緒に生まれてきたんだぜ」

「そうね。そばにいるのが当たり前」

「そうだよ。お前は俺の妹で、俺はお前の兄貴なんだから」

「私、兄貴とまた会えるように、歌を頑張るからね。また兄貴と一緒に暮らせるように。だから兄貴も頑張るの、お願いね」

「おう。俺、頑張るよ。絵描きになって、お前に会いに行くよ。頑張るよ!」


 もっともいまの龍士にとっては象徴と化している会話だから実際のやり取りとは多少異なる部分もあるだろうが、大体のことは秀明にもわかった。

 秀明はなんとなく思う。

 こだわりの強い二人であり——だからこそ、夢に取り組めている、ということだろうか、と。

 俺の夢はなんだろう、と、秀明はちょっと自分のことを考えてみた。昨日七瀬と話したように、とりあえず大学には行くとして、卒業したらどうしよう。秀隆に弟子入りして作家になるという可能性もあるし、あるいは普通に会社勤めをする可能性もある。あるいはそれらとは別のなにかに。だから、とにかく秀明には“将来の夢”というものがこれといって定まっていない。龍介のように保育士になりたいといった目標が、いまの自分にはまだない。大学進学以降の進路が形になっていない。自分はどういう大人になりたいのだろう。どういう職業に就いてなにをしながら生きて働いて生活をしていくのだろう。なまじテレパスとして周囲の少年少女たちの到底叶いそうもない夢物語を盗み見していったことで、自分の将来というものを本格的に考えることを自分は疎かにしていたなと思う。

 だけど、まだ高校生なんだから、そんなものだろう、とも思う。

 だから、十代の頃に、将来の展望を抱いている龍介や龍士は、幸運なのだろう、と思い、二人のことが少し羨ましくなった。

(まあ俺は、本が読めればそれでいいんだけどね)

 そしてそれが大人になることに繋がっていけば一番いいのだが、と、思う。

 中ホールに到着し、三人は扉を潜り抜ける。まだスーパースターでもなんでもない真桜の凱旋にしてお披露目コンサートだから満席にはなっていない。空席を発見して三人は並んで座る。冴と七瀬もどこかにいるのだろうが、わざわざ探す必要もない。

 もうすぐ夢を叶え、そして現実の日々を生きる少女の歌声が鳴り響く。

 会場の中の夢追い人たちは真桜に羨望や嫉妬や憧憬を抱いている。自分も真桜に、追いつけ追い越せ。いつか自分も保育士に、あるいは絵描きに、あるいはミュージシャンに、パティシエに、サッカー選手に、考古学者に。

 でも、夢は叶ったら、現実になるだけで、そしてそこにあるものは結局、実際に生活をするという、ただの平凡な世界だけだ。

 だからこんなことを考えてしまうから自分はまっしぐらに夢を見ることがないのかな、となんとなく秀明はそう思い、心の中で自分に対して苦笑した。

 だから、自分もなにかに一生懸命になりたいと思う。情熱の炎を燃やしてなりふり構わずひたむきに夢を追いかけてみたいと思う。そうなってみてもいいのだろうなと思う。

 でも、別にいまそうしなければならないという理由はない。

 いまはいまで、いまの自分がやるべきことをやれるだけやるだけで。

 いまはそれでいいのだろう。

 いつかのことは、いまは置いておいて。


 ——舞台が、始まる。

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