5-3
「ただいま」
「あら。お帰りなさい」冴は本の埃をはたきで払っていた。「遅かったね」
「なかなか捗ってね」
「それはなにより」
「神谷くん来たかい」
「うん。さっき帰ったよ」
「実可子ちゃんっていうのは?」
「お詫びに来てくれて……クリーニング代で一万円もくれて」
「金持ちだ。さすがだね」
「かえって申し訳ないな」
「臨時収入だと思えばいい。龍は?」
「シャワー入ってる」
「夕飯はなんだね」
「回鍋肉」
「なんでも作れるんだな」
「私も負けてられないわ」
ふと秀明は訊ねた。
「ストーカーの話っていうのはどうなったんだい」
「もうしばらく様子を見るってことで」
「まあその方が無難だね」
「あら。でも、世の中なにがあるかわからないじゃない。なにかあったの?」
夕馬のことを思う。秀明の推測では、たぶん彼はもうこれまでのように実可子に付きまとうことはないだろうと思うが、確かに世の中なにがあるかわからないのはその通りだ。無茶な行動に出るかもしれないという可能性はある。ただ、夕馬の心を読んだ秀明はそんな事態にはならないだろうと考えている。なぜなら夕馬は実可子に対して恐怖心が生まれてしまったからである。それは「ストーカー」と(あんなことも、こんなことも)していたことが結びついてしまったことによって、自分自身の存在そのものに羞恥心と罪悪感を覚えたことから来ている。不十分ながらも客観性を得ることで決定的な自己嫌悪に陥ったわけである。その結果、攻撃よりも防御の方向にエネルギーが向かうだろうし、となると今後実可子に近づいて彼女に拒絶という名の“攻撃”をされることを全身全霊で避けるはずだと秀明は思った。いずれにしても夕馬がこの店に来たタイミングで冴に実可子から電話が入ったという奇跡的な偶然が彼の精神に決定的な変容をもたらすことになったわけであった。だからそこで秀明はふと考える。
「運命って信じるかい」
「なに、突然」
「いや。冴の意見を聞きたい」
「そうだね」
と、冴はちょっと考え、やがて答え始めた。
「例えば、好きな人がいるとするじゃない?」
「ふむ」
「結ばれたら運命だった。結ばれなかったら運命じゃなかった。ってことだと思うの」
興味深い、と、秀明は頷いた。
「なるほどね。要するに、運命とは結果論なわけだ」
「赤い糸で結ばれてても、嫌な相手ならさよならなわけじゃない? 結ばれてない同士なら結んじゃえばいいわけだし。だから結局のところ選んでいくことが大切で、私たちはそれをただ選ぶだけなんだろうな、それがつまり、運命になっていくってことなのかな、みたいな」
「結局のところ運命とは、自分の力で切り開いていくものってところかね。なかなか平凡だ。いや平凡こそ真理かな」
「というか」
「?」
冴は、いまから言う自分のセリフをとても面白いことだと思ってしまい、少し恥ずかしそうに答えた。
「自分の力で、こじ開けていくもの、みたいな」
思わず秀明は吹き出してしまった。
「どっかで聞いたセリフなのかい」
「かもしれない。なんだか恥ずかしかった」
「しかし、そういうことなんだろうね」
「とにかく、あなたが、その方が無難だって言うなら、そうなんでしょうね。実可子ちゃんもいろいろ話して疲れちゃったみたいで、それでかえって落ち着けたみたいで」
「いろいろ話してって?」
「シラノ・ド・ベルジュラックの朗読をしてくれたの」
おそらくは夕馬がおかしくなり始めたきっかけ。
「ふむ」
「内容を全部暗記しててね。龍くんも興味があったみたいだから二人で聞いたよ」
「腕の方は?」
「音楽をやってるっていうのと関係があるのかわからないけど、なかなか聴き入ってしまった。本当にお気に入りの物語なんだなぁって思ったよ」
「どの辺が好きかとか聞いたかい」
「ええ」
龍士のことを思う。
「よかったら」
そこで冴はちょっと記憶の糸を手繰り寄せて、実可子の言っていたことをそのまま秀明に伝えた。
「自分が醜いせいで、好きな人に直接好きだって言えなくて、それでも僕は本当に好きなんだっていうシラノの純朴な思いに惹かれるんですって」
実可子に、直接アプローチをしなかった夕馬。
「実可子ちゃんも男にそういうアプローチがされたいのかね?」
「うーんそこはどうかな」
「まあ女の子って、好きでもなんでもない男からの告白なんて気持ち悪いし怖いだろうしな」
「それはそう。でも」
「?」
「実可子ちゃんは——その辺、豪放磊落というか、天衣無縫というか。好きなら好きって言え! 当たって砕けろ! 砕けちゃっても好きな相手に好きだと言えた勇気が合格! みたいな」
実可子はもともと、夕馬という一人の男のことをどう思っていたのだろう。もし夕馬が、恋愛に関してそういった考え方を持っている実可子に直接アプローチしていたら、どうなっていたのだろう。もしも結ばれなかったとしても、実可子が夕馬の愛に応えることがなかったとしても、しかしそんな実可子は夕馬をどう思うようになっていただろうか。
そう考えた秀明は、ふう、と、ため息をついた。
「どうしたのため息なんて」
「いや。人生ってうまくいかないよねって」
「?」
「ロクサーヌは、最後、シラノを愛する」
「それが?」
「現実的にどう思う? そういう気持ちの悪いアプローチの仕方をしてきた相手って愛せるものなのかね」
「さあ。クリスチャンが普段どういう振る舞いをしてたかにもよるだろうし、戦争っていうのも大きい要素なんだろうし」
「まあそれは無視できないが」
「ただもともとロクサーヌは別にシラノのことが嫌いなわけじゃなかったわけだし、シラノは外見にコンプレックスがあったけど作中ロクサーヌがルックス至上主義なんて言及はされてないし」
「要するに、いつものコミュニケーションと関係性の問題だよね」
「と、思うよ。もともと好きではあったんだと思うの。その時点では恋じゃなかったかもしれないけど、いとこのシラノに好意は抱いていたと思うの。じゃなきゃやっぱり気持ちが悪いって思うよ、美形の友達の振りをして手紙を書くだなんて」
真桜の恋人の振りをして、妹に
秀明は言った。
「まあ結局」
「はい」
「愛は愛された側が強者なのだね」
「まあ選ぶ立場にはあるだろうね」
「運命って、いろいろあるけど頑張ろう」
なんだかおかしくなってきて、冴は笑ってしまった。
そして、応える。
「そうだね。それでも生活は続いていくんだものね」
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