第五話 夢で会いましょう-Sing Your Song-

5-1

「小さい頃、猫を飼っていたんだ」

 秀明は昔のことを思い出しながらぼそぼそと呟く。

「小学生のときに……まだシャハシュピールにやってくる前。すごくかわいがっていた。だけど、あるとき突然いなくなってしまった。外に出してやったら、そのまま逃げてしまった。それから帰ってこなかった。あのとき、俺は本当に怖かった。秀仁も怖かっただろう。もしかしたら車に轢かれて死んでしまったんじゃないか、あるいは誰かに飼われてしまったかもしれない、そんなことばかりが頭の中を駆け巡ったんだ。でも、いなくなった三日後、ふと押し入れの中を開けてみたらいつの間にかその子がそこにいた。どういう経路を辿ったのかわからないが、いつの間にか家に帰ってきていたんだ。それで俺は飛び上がるぐらい嬉しくなって、抱き抱えて。猫はゴロゴロ鳴いてさ。本当に良かった、良かった、と、思った」

 そこで秀明は、ふう、とため息をつく。

「その後……一週間ぐらい後かな。車に轢かれて死んでしまった。なんでこんなことになったんだろう、と、道端で死んだ猫を見てつくづく後悔した。いなくなってしまって、それでも見つかって、だから安心して、油断していたんだろうね。でも、それ故に死んでしまったのなら、俺は一体なにをしていてなにを考えていたんだろう、そんなことを、その後しばらく考え続けていたんだ」

 もちろん桜草は何の反応も示さない。秀明の精神感応能力の窓を開けても何の反応も示すことはない。植物だから当然ではある。だが、だからこそ秀明は花屋「イル・フラウト・マジコ」にちょくちょく足を運ぶのだ。秀明が花を相手にぼそぼそと呟いている様を見て、第三者は大抵この人どうしたんだろうと奇異の目で彼を見る。それはわかっているのだが、しかしテレパシー能力を全開にしてもなにも読み取れない植物は秀明の心を癒す大切な存在だった。むろん、植物に心があるかないか、それは秀明にも根本的なところではわからない。もしかしたら自分の能力の限界を超えているだけなのかもしれないし、あるいは植物とは自分の能力では読み取れない特殊な精神構造なのかもしれないが、しかし秀明が読み取れない以上、彼にとって植物に心はないということになっていた。秀明にとって、その心のない、しかし優しく存在しているように見える植物は大いに自分を癒してくれた。秀明は特別園芸が趣味なわけではないが、気分転換がしたいときはこうやってイル・フラウト・マジコにやってきてその日の気分に合った花に独り言を呟くのが習慣であった。

 なにも言わずにただそこに在る花を見て、秀明は頬杖をついてしばらくぼんやりする。今日、桜草を選んだのに大した意味はない。店にやってきて、なんとなく気になったから選んだ、というだけだった。それがたまたま今日は桜草だったというだけの話である。

 秀明はただただ、桜草を見つめる。

 店員も客も、秀明がちょくちょくここにやってくることはもう認識していた。最初の頃は花を相手にぶつぶつと何事かを低い声で呟いていることを不気味がっていたが、いまではもうみんな慣れたようだった。

「人と人とはわかり合えないものなのかもしれないし、あるいは人と人とは傷つけ合うものなのかもしれないけれど、でもだからと言って開き直りたくはないよね」

 脈絡もなくただ思いついたことを喋る。

「真実は一つじゃないし、永遠は絶対じゃないし。だけどそうとわかっていながら人は唯一の真実を求め、永遠を願う。その先に待っているかもしれない絶望を希望だと言い張り、そして罪を贖うかのように絶望する」

 自分自身、実におかしなことを言っているなという自覚はあるが、それでも桜草は黙って聞いてくれる。何の反応も示さずに自分の話を聞いてくれる。

「明日が必ずくるとは限らない。黙っていても日は確かに昇るかもしれないが、しかしそれはただ日が昇っているだけだ。穴蔵の中にいる人間にそんなことはわからないだろう。だから彼らにとって明日が必ず来るとは限らない」

 あるいはこれは一種の瞑想だった。湧き起こってくる雑念を次々に言葉にし、そこから連想されていくイメージを秀明なりに言語化しているのだ。

「やがて待ち受けるのは真実ではなく、永遠でもなく、希望でもなかったとしても、それでも人は夢を見続ける。人は独りだ。だからこそ人は群れをなさないと生きていけない。せめて悪夢を見ないようにと必死で人は夢をみる。果たしてそれが“幸福”なのだろうか? そんなことは俺にはわからない。ただ——未来を少しでもより良いものにするためには、“明日はきっといいことがある”という希望が絶対に必要不可欠なんだとは思うよ」

「はい、柾屋くん」

 不意に肩をぽんと叩かれ振り向いたら、そこにいつものように七瀬がいた。

「ああ神谷くん」

「また花に喋ってる。毎度のことながら飽きないわね」

「まあね。なんだか習慣になっちゃってね」

 七瀬はいくつかの花の種の袋を持って呆れたように秀明を見下ろしていた。七瀬の趣味は園芸であり、花を育てるのが好きでよくここにやってくる。そして独り言を呟いている秀明とたまに遭遇しては雑談するのが彼女にとっても習慣になっていた。

「今日は桜草か」

 秀明は、ふふ、と微笑む。

「なんとなくね」

「なーんか難しいこと言ってたっぽいね」

「聞こえてたかい?」

「全然。この至近距離でもわからなかった」

「それは良かった。我ながら要領を得ないことを言っているから」

「ま、そういうときもあるわな」

「気分転換の場所があるのは幸せだよ」

「あれ、なんかあったの?」

「トップ・シークレット」

「ま、いつも通りか。それで気分転換はできた?」

「まあね。この後『シャンゼリゼ』でコーヒーでも」

「いいね。あたしも行こうかなぁ」

「一緒に行くかい」

「奢ってくれるの?」

「彼氏でもない男に奢られてなにが楽しいわけなんだい」

「ほんとウザいよね柾屋くんって」

 そう言いつつ、七瀬はなんだか機嫌が良さそうだった。秀明は窓を開けてみる。

(ま、龍介の上司だしね)(これからはちょっと大目に見てやるか)(おかげで龍介、元気になったっぽいし)(コンサートは、ま、みんなで行きますか)どうやら龍介の気分が良くなったことを秀明のおかげだと思っているらしい。

「じゃ、行きますか」

 そして秀明は立ち上がった。ふと桜草の説明書きを読んでみた。花言葉は「少年時代の希望」だった。

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