4-5

 というわけで三人はシャハシュピールに向かう。

「龍くん、なんだか機嫌が良さそうだね」

「わかりますか冴さん」

「わかるわかる」

「実は龍士、俺が原因じゃなかったみたいで」

「あら、それはよかったね」

「もっとも、なにかで悩んでるのは確かみたいなんで、なんとかしてやれないかなぁとは思うんですけど。やっぱり、そしたら本人が話すまで待つべきかな」

「まあその方が無難だと思うけどね」

「お節介になるわけにはいかないし」

「でも龍くんは友達大好きな人なんだね」

「友達は大切っすよ。もちろん七瀬も大切っすけどね」

 七瀬としては中学生の頃から複雑な気分なのだろうな、と思いつつ、それでも恋人の関係が続いているのであれば彼女自身も龍介を受け入れてはいるのだろうと秀明は思った。

「にしても冴さん、ほんとに家に帰らなくていいんすかね」

「うん。お母さん、お父さんを病院に呼んでね。それで今日は私が夕ご飯作らなくても良くなったから」

「お父さん料理できないんすねぇ」

「放っといたら卵かけご飯ばっかり食べてるから」

「あらま。それは大変」

「龍くんを見習ってほしいわ」

「いやいや。結局、好きなんすよねー」

 そんなこんなでシャハシュピールに帰宅すると、店の前で昨日の少年が佇んでいた。

「昨日の子だ」

 と、秀明は駆け出す。

「すみません、いま開けます」

(やっと来た)(遅いんだよ)

 冴と龍介もやってきたため秀明は心の窓を閉じた。視覚や聴覚と違い、精神感応能力を発動させるためにはちょっとした工夫がいる。秀明はそれを“窓を開ける”という表現でコントロールしていた。そして窓を開けた以上は窓を閉めなければならない。そうしなければ人々の無限の意識が常に流れ続けてきてしまうからだ。

 扉を開け、秀明は急いで居間に置いたチェロを手に取り少年の元へと向かう。

「忘れ物です」

「あ。ありがとうございます」

「すみません遅くなって」

「いや、忘れたのおれですし」

「それであのう」

「?」

 秀明は申し訳なさそうに説明した。

「プライバシーに関わるかとは思ったのですが、お客様のお名前やご住所がケースに入っているのではないかと思って、中を見てしまいました。申し訳ございません」

「えっ」秀明が喋り終える前に、少年の目は見開いていた。「じゃあ、あ、あのその、楽譜を見たんですか」激しい動悸。呼吸不全になるのではないかと思うほどの驚愕。それは秀明の予想していた展開とは大きく異なる反応だった。「楽譜を、その、あのう」だが彼は何とかして平常心を保とうと努力した。

「大変申し訳ございませんでした。重ね重ね、お詫び申し上げます」

「いえ、いえ、その、いえ。あのう」

「はい」

「こっちこそ、本当に、ご迷惑おかけしました」

 そのとき、冴のスマホが電話の着信音を鳴らした。その音に少年はビクッと震える。

「ちょっとごめんなさい、もしもし実可子ちゃん?」

 と言って冴は居間へと向かう。その後を龍介は追いかける。

(実可子だって?)

 少年と二人きりになったため、秀明は窓を開けた。

(そんな)(まさか)(いや実可子なんて)(そんな名前の女はいくらでも)(でもだって)(なんであの人が)(電話が)(いやいや)(名前だけ)

 しかし少年は店へと入り、冴の声に耳を澄ます。

 電話口で冴は言った。

「じゃあ、お店の方に来てくれるかな。お詫びはいいんだけど、私もクラスメイトのストーカーっていうの気になってたの。でも、明日のコンサートは大丈夫?」

 そして絶望が少年を襲った。


 最初に秀明が夕馬の中に見たものは音楽家ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの姿だった。それは生きて動いている現実的感触を持った存在だった。だがもちろん、それは現実に存在している人物ではなく、夕馬の絶妙な想像力が生んだ仮性幻覚だった。幻覚を伴った一種の妄想である。昨日、交響曲第十番「永遠」と題された楽譜に残された意識の残り香を読み取ったとき、秀明は本当にベートーヴェンの幽霊が夕馬に取り憑いているのではないかと自分の精神感応能力を疑ったが、だが今はそれが完全なる症状であることを認識していた。では一体、彼の内なる目に映るベートーヴェンとは一体何なのであろう、と思った次の瞬間、夕馬の想起域には「架空のチェロ講師」というイメージが浮かび上がった。その存在を彼が必要としたのは、自分がチェロを弾く理由は誰かに教えられているからやっているのであって、だから自分はチェロを弾いてもいいのだ、と、第三者にはよくわからない論理を組み立てるための材料であるからだった。だが、彼にはそこで阿部実可子という人物の存在、阿部実可子が幼い頃からずっとヴィオラを弾いていること、そして阿部実可子に憧れてチェロを始めたという真意が確かに存在していたため、その論理を形成しなければ彼は阿部実可子に対しての恋心が本質的には“悪しきもの”で構成されているということを理解してしまうからだった。

 いや。元々はそれは決して悪しき恋心ではないはずだ、と、秀明は推測した。だが夕馬は実可子に対する恋心と、同時に実可子に対する劣等感が、それを悪しき恋心だと深層心理で確信していた。その劣等感、それは男と女という性差意識さえなければ存在しなかったかもしれない感情だったが、しかし実可子は自分より知力も体力もあらゆる能力がなにもかもずば抜けていた。

 女はあくまでも男よりも劣るもの、と信じ込んでいる夕馬にとって、それは完全に男としての自己の誇りを打ち砕くものだった。したがって夕馬の抱く複雑怪奇な感情から発生するに至った罪悪感は(自分にチェロをベートーヴェン先生)に全てなすり付けてしまうことで、彼は自分を正常な精神状態に保たせていたのである。

 さらに夕馬の想起域にはシラノ・ド・ベルジュラックについての罪の意識をも浮かび上がってきた。それは実可子のお気に入りの本だった。そして彼は誰もいない教室の中で、机の上に置かれていたその本をこっそり盗んだ。以来、彼はそれを一生の宝物にして本棚に飾り、そして町中の本屋へ行ってシラノ・ド・ベルジュラックを買い漁っていた。そうすることで実可子の分身を手にしているような気分になれ、それは恍惚の感情を彼に与えていたからだった。むろん、シャハシュピールにも白羽の矢が立てられたことは言うまでもない。だが識字障害を患っている夕馬がそれらの本を読み解くことは相当な努力が必要だった。だから大量のシラノ・ド・ベルジュラックを苦労して読むことはほとんどなかった。だがしかし、そこに彼は一種の選良意識を抱いた。それは(おれがこんな病気なのはきっとおれが選ばれた人間だからだ)(神はおれに“文字が読めない”など些細なことだと教えてくれたのだ)(それだけ実可子を愛せているという証明なのだ)(それはつまりおれが選ばれた人間だからだ)という図式から成り立っていた。夕馬は神を信じてはいなかったが、自分を選んだ存在として神を必要とした。

 あまりにも奇妙な論理が続いていく中、秀明はさらに夕馬の精神内部を観察した。「永遠」の楽譜は彼が書いたものだった。ベートーヴェンの幻覚が夕馬に書かせてくれたものである。だが僅かな音楽的才能しかない夕馬の独創的作品には仕上がらなかった。それはほぼ様々な既製の楽曲を繋ぎ合わせた盗作に過ぎなかったが、夕馬にとってそんなことはどうでもよかった。独創であろうが盗作であろうが、彼は「交響曲第十番・永遠」と言うタイトルを付けることができればそれがどんな楽曲に仕上がろうと関係がなかったのだ。その「永遠」のタイトル、それは実可子が音楽の授業中にふざけて友達と書いて笑い合っていたプリントをこっそりくすねたものだった。

 いまや夕馬は、いまから実可子がこの店にやってくることに対して極度の恐怖を覚えていた。「永遠」の楽譜を秀明に見られたことで自分の恥部を覗き見されたような気分になったところになぜか従業員に実可子からの電話が入り、そこから登場した「ストーカー」という単語によって夕馬の絶望は止まらなかった。(だって実可子は、いつも話しかけたら笑って返事をしてくれるのに)(いやでもおれのことじゃないのかもしれない)(でも本を盗んで、プリントを盗んで)(あんなことも、こんなことも)ほんの数秒の間に次々に浮かび上がってきた夕馬の意識を読み取り、秀明は心から夕馬に同情した。深層意識には(親がウザい)(なんでおれを束縛するんだ)という不平不満も内在しており、それは彼の、非常に簡単に他人に執着するという性質を心配してのことだろうと秀明は推理した。その性質が、病気が原因かどうかまでは秀明にはわからない。しかし実際にいま実可子が困っているほどに彼女にこだわっているのだ。秀明は彼を同じように脳に障害を負っている自分と重ね合わせ同情心が芽生えていた。だがそれが夕馬に伝わることはないだろう。

 いや。あるいは夕馬がもっと大人になって、自分の失読症という障害を本当の意味で受け入れたとき、彼は成長するのかもしれなかった。だがその成長には多大なる痛みを伴うはずだと思い、なんだか秀明は夕馬の今後が心配になってきた。その心配も同情も、少なくともいまの夕馬であればおそらく何の感慨も抱かない感情なのだろうが、とも思った。

「あ、あ、じゃあ。おれ、あの、これで。いえ、その、預かってくれていてありがとうございます」

「お気をつけて」

 秀明が頭を下げる前に夕馬はチェロを抱えて逃げるようにシャハシュピールから駆け出していった。それは実際に、逃亡だった。

 夕馬の後ろ姿を見て、秀明はぼんやりと思う。実に奇妙奇天烈な論理形成であったが、彼にとっては筋が通っているのだろう。これから家に到着し、彼はなにをするのだろう。チェロは今後どうなるのか。そして来週からの中学校生活はどうなるのだろう。あるいは実可子のストーカー被害の問題はここで終了するのだろうか。なんとなく秀明は、夕馬は性格的に無茶なことはしないのではないかと思う。というより、むしろ夕馬はもう実可子に関わらないようにするため不登校になり家に引きこもるのではないかとも思った。それもいい、と秀明は思う。実可子にわかりやすい形で拒絶されるより、あるいはそれを親や教師に叱責されるより、実可子のことを悶々と考え続けながらも引きこもってしまった方がずっと彼の安全は守られる。その間に、色々な人たちの手助けによって夕馬が学習し、成長していければ、それが一番より良い結果に繋がっていくのではないかとなんとなくそう思うのだ。夕馬の意識には(役に立たない精神科医)というイメージも出現していたが、この絶体絶命の状況下で出現したぐらいだから何にもできない無能だとは思ってはいないのだろう。とにかくベートーヴェンの仮性幻覚の問題が治癒できれば彼も一方で前に進めるのだろうが、と、そう思うのだった。

 夕馬の姿が完全に見えなくなった頃、秀明は、ふう、とため息をついて空を見上げた。そんな様子の彼を怪訝に思い、冴がやってきた。

「どうしたの秀明」

「ん?」

「あの子、なにかあったの」

「そうだねぇ」

 ちょっと考えたのち、秀明は冴に訊いた。

「今日は、そんなに遅くまでじゃなければ店にいるんだろ」

「そうだね」

「じゃあ龍に店のことを軽く教えてやってくれないか」

「あなたは?」

「『イル・フラウト・マジコ』に冷やかしに行って、それから『シャンゼリゼ』でコーヒーでも」

「ああ」と、冴は飲み込んだ。「気分転換がしたいのね」

「悪いね」

「いいよ。どうせ暇だし」

「じゃ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 そして持っていたカバンを冴に預け、秀明はシャハシュピールを出て行った。

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