SWEET MEMORIES

三奈木真沙緒

全部アルコールのせい

 不登校状態だった息子がようやく保健室登校を始めたのと入れ違うように、夫がけがのため休職することになった。私は、息子のケア、仕事、家事、入院中の夫の世話、退院した夫の世話と話し相手、学校からの呼び出しと面談、そのうえ町内会の役員が重なって、心身とも限界まで消耗しきっていた。息子はほとんど口をきいてくれず、学校の先生には遠回しに「息子さんの心が不安定なのはご両親が不安定だからなのでは」と説教され、夫は身動きがままならないせいで私に愚痴ぐちをこれでもかとぶつけてくる。疲弊ひへいのあまり現実逃避を求めた私は、なんとか都合をつけて、土日を利用して一泊二日の旅行に出かけることにした。夫は小康状態だったし、息子も簡単な調理はできるし、何かあれば市内の義両親が来てくれるということで、私を乗せた電車は隣県のとある街に滑り込んだ。昼を過ぎていた。大きな街で、人も多い。とりあえずボストンバッグをコインロッカーに放り込み、駅構内をぶらぶらと歩く。


 もとより現実逃避の旅なので、自宅を離れることが最大の目的だから、ホテル以外の計画も何もない。ようやく混雑を脱しかけた飲食店に入って、昼食をすませる。パスタセットはおいしかったけれど、食べ終わる頃にひどく体温が上がってしまい、メニュー選択の失敗を悟る。駅構内から出ると、ここしばらく体験していなかった種類の日差しが降り注いできた。少々蒸し暑い。昼食で熱いものを食べて後悔した原因はこれか。チェックインにはまだ早いので、駅の近くを散策する。地元ではまず起こりえないにぎわいが、五感を快く刺激してくる。


 喉が渇いた。駅へ戻る途中のオープンカフェを見つける。ふと、通りに貼り出されたビラに目が行った。どうやら街を挙げての音楽フェスが開催中らしい。賑わいが腑に落ちる。カフェでアイスティーを飲みながら、スマホで検索してみた。今夜は街の何箇所かで、ジャズライブが行われる予定ということだ。ジャズなら――ホテルから遠くなければ、行ってみてもいいかなと思う。

 ほどよい頃合いになったので、バッグを回収して、バスでホテルに向かう。部屋でひと息入れた。蒸し暑さで思った以上に疲れていたが、それすら心地よかった。改めて、今夜のジャズライブを調べてみる。このホテル近くの河川敷特設ステージも会場になっているようだ。ここなら遅くなっても大丈夫だろう。ジャズは詳しくはないが、聞くのは好きだ。休憩の後、シャワーを浴び、早めの夕食を取って、薄暗くなる頃にホテルを出た。



 河川敷のステージは、観覧無料のかわり、明確な出入り口があるわけでもなく、チケットも整理券もなく、きちんとした座席もない。行きがけの店で、キャンプに使う小さな簡易の折り畳み椅子と、缶チューハイをひとつ買った。スタッフが配布しているプログラムをもらってステージに近づく。すでにいくつかのバンドが演奏を終えていた。同じように折りたたみ椅子にくつろぐ人たちから、若干の距離をおいて落ち着いた。日が暮れて気温も落ち、川面を渡る風はちょっと冷たいくらいだ。参加しているのはアマチュアバンドが中心で、まったく詳しくない私の知らない名前ばかりだった。でも演奏はみんなすてきで、アップテンポのものからしっとりしたボサノバ、ムーディーなスローテンポ、にぎやかなビッグバンドを意識したアレンジまで、バラエティに富んでいた。知っている曲が異なる雰囲気にアレンジされていることに驚かされたし、知らない曲さえもが快く味わえた。中でもびっくりしたのは、「犬神家の一族」のテーマがジャズアレンジされた演奏だった。曲の合間に缶を開けて、ほろ酔い気分で聞き入る。こんな風に過ごしたのは、年単位でなかった時間だ。


 いくつめのバンドだっただろうか。私と同じくらいの年齢層の男性のバンドが入ってきた。キーボード、ベース、ドラム、トランペットという取り合わせだ。アナウンスがバンド名を紹介して、演奏が始まる。プログラムによると1曲目は「リカード・ボサノバ」というタイトルらしい。結成二十年弱というキャリアにふさわしく、たどたどしさのない堂に入ったプレイだ。軽く酔いの回った目でステージを見ていて、ふと思った。


 ――あのドラムの人、見たことがあるような。


 私はしばらく、ドラマーに見入っていた。両手と両足とを別々のタイミングで器用に動かし、アップテンポのリズムを叩いている。……確かに知っている人だ。プログラムを見直す。メンバーの名前は、明らかに芸名とわかる英語名と、本名かどうかわからないが日本の姓とが組み合わされた表記だった。ドラマーの姓を見て、記憶の芯が大きく揺れた。


 たぶんあの人だ。

 中学の時、同級生だった、あの人。


 もう一度、ステージに目を戻した。年齢相応にやや丸みを帯びた体型になっていたが、これはご同様の私が言えることではないだろう。それでも、演奏中に傾けた顔の角度、一瞬見せる表情、目鼻立ち……。

 まさか、こんなところで見かけるなんて。中学校を卒業して、それっきりだったから。


 ジャズが好きだなんて、あの頃は全然知らなかった。

 いつから、ドラム始めたんだろう。

 眼鏡、かけるようになったんだね。ちょっとばかり額が広くなったかな。でも、それでも。


 曲が終わった。拍手が集まる。私も缶を持ち直して、小さく拍手する。メンバーが楽器を下ろしたり立ち上がったりして、自己紹介とトークの時間になったようだ。キーボードを弾いていたバンドリーダーが、最初にマイクを持って話す。全員が本業を別に持ち、余裕のあるときだけ活動するアマチュアバンドだということが明かされた。ドラマーの彼もどうやら、今ではこの街に根を下ろしているようだ。順番が来て、ドラマーがマイクを受け取り、話しはじめた。

 ああ、この声、話し方、表情。……やっぱり。

 間違いないと思った。

 話の中で彼はひと言だけ、妻がどうのと発言していた。既婚なんだ。当然だろうな。あれからもう25年くらい経っている。私だって結婚したくらいだ。彼は中学生の頃からそこそこ端正な顔立ちだったし、今だってこんなに……。


 トークの後、「SWEET MEMORIES」という曲紹介を経て、2曲目の配置につく。彼は見渡し、メンバーそれぞれがスタンバイできたかどうかを見届けると、スティックで小さくリズムを刻んで出だしの合図を送る。ドラムとベースとキーボードがほぼ同時に、弱音じゃくおんから歌い始める。トランペットが伸びやかに主旋律を奏で、キーボードとベースが奥行きを作る。そして彼の、そよ風を思わせる繊細なスネアのざわめきと、さざ波のような静かなシンバルのせせらぎと、聴覚をごくわずかにくすぐるハイハットのつぶやきと、控えめなバスドラムの響きとが、曲の背骨となっていた。

 私は、しっとりとした曲調に身も心もゆだねながら、ドラムの彼ばかりを見つめてしまっていた。ステージの照明にさらされ、彼の顔はレモンとオレンジの中間色に、左右不均等に彩られていた。祈るように、魂を込めるように、上体を傾けながらスティックをふるうしぐさ。手元を横へ滑るように流れる目線。抑制した静かな動きで、要所にだけ力をこめて、ひらめく手つき。体を起こし、メンバーひとりひとりの様子を確かめながら、リズムの速度や強弱を微調整するまなざし。そっと一歩下がって、仲間たちを見守り、縁の下から支え、打音で包み込むかのように。

 彼の挙動に、生み出されるリズムに、体の中が静かに震えだす。



 私は中学生当時、ひとりでぽつんとしている子だった。父は毎日仕事で帰りが遅く、休日は寝てばかりだった。母は体が弱く、入院も多かった。私は家事と、小学生の弟の世話と、どうかすると母の看病もあり、いっぱいいっぱいで、家でも学校でも疲れていた。たぶん、話しかけづらい雰囲気を出していたのだと思う。いじめられていたわけではなく、あいさつだって普通にかわしていたけれど、放課後や土日を自由に過ごすことのできなかった私は、誰とも親しくなれなかった。それでも学校の方が、自宅にいるよりずっと楽だった。自分のことだけしていればいいのだから。

 そんな私と、普通に会話してくれる男子が、ひとりだけ、いた。

 休み時間に、廊下の窓からぼんやり中庭を眺めながら、休憩というより意識を漂白させていた私に、「なんかおもしろいもの、あんの?」と話しかけてきてくれた。何もないよと答えたら、そっか、で終わりだったけど、以来ときどき、窓辺の私に話しかけてくれるようになった。「いつも何見てんだ?」とか、「今日はいい風だな」とか。「秋本先生のアタマ、今日もまぶしいな~」なんて言われたときは、吹き出してしまった。誰かと笑いあったのは、あのときが初めてな気がする。そんなふうにたわいもないことで、私と彼とは、少しずつ会話するようになっていった。

 あの時代、あるいは私たちの中学だけだったのかもしれないけれど、男子はスポーツができたりパワフルに目立っていてナンボ、の雰囲気があった。そういう意味では、彼はスポットライトから外れた位置にいた。でも、中学生としてはきりっと端正な顔をしていて、文化系の、穏やかな雰囲気の子だった。いつもくたくただった私は、元気な子と明るくはしゃいで疲れるよりも、気を張らずにのんびり話せる相手といる方が、よかった。

 優しかった。

 彼との思い出は、それだけだった。

 でも、今こうして、ふとした表情とか話し方とか声とか、はっきりと思い起こすことができる思い出だった。



 ちょっと、好きだった。

 彼のいない高校に通うようになって、はじめて気がついた。

 そう思ったことさえ、ついさっきまで忘れていた。



 彼の、ささやくようなごくかすかなシンバルの音を最後に、曲が終わった。

 拍手の中で、彼は指先ですばやくシンバルをつまんで、残響を殺す。メンバーたちは一礼した。

 3曲目は、「煙が目にしみる」だと告げられた。ピアノの音色で始まったメロディの下で、低く低くベースが歌う。静かな空間にふと誰かが通りかかった物音のように、主張しすぎない、けれどもリズミカルな打音が、ソフトに響いてくる。穏やかな鼓動を思わせるバスドラムが、寄り添ってくるスネアドラムが、硬質の音なのに優しく揺さぶってくるシンバルが。途中でトランペットが華やかに重なって舞い降りる。音楽でありながら、心のうちに静謐せいひつが満ちる。無心、というのはこういう状態なのかもしれない。にもかかわらず、ゆっくりと、だが急角度で、温度を上げていく感情がある。

 音のひとつひとつに、彼の細やかな神経が行き届いていた。ハイハットのごく小さなリズムさえもが心地いい。心を砕いた彼の刻みは、幾度も繰り返し、聴覚を痺れさせ、さらに奥へ寄せてくる。

 知っている曲のはずなのに。こんなに、まぶたが熱くなる曲だっただろうか。

 演奏が終わる。ピアノとベースの残響に合わせ、彼はシンバルにスティックを、徐々に強めながら幾度も小刻みに叩きつけて、最後を飾る。バスドラムと同時にすべての音が止み、彼は指先でシンバルをつまむことで、自分の音だけが最後に悪目立ちすることを避ける。

 大きな拍手が起こった。メンバーたちは再度礼をして、退場していった。ごくあっさりと。

 ドラマーの彼も、もちろん私に気づくこともなく。

 次のバンドが準備する間に、私は最後のひと口を飲み干し、椅子を畳んで、その場を離れた。



 舞台そでの楽屋と思われる方角に、私はそっと歩いて行ってみた。

 会ってみたい気がした。話してみたかった。

 中学のときの同級生で、旅行に訪れてたまたま見に来てみたら、本当に偶然、久しぶりに姿を見かけて。……嘘ではない。

 だけど、彼が私を覚えていない可能性もあると思うと、足取りは軽くはなかった。

 非日常を求めてきた旅なのに、ためらいを乗り越えるのは容易ではない。

 夫や息子を裏切りたいわけではないけれど、大人に相応ふさわしい不道徳な考えが、体の芯にからみついて離れない。

 テントに出入りする、スタッフのシャツ姿にまぎれて、先ほどのバンドのメンバーが、あちらこちらにあいさつしながら姿を現した。

 ドラマーの彼のそばに、女性が一緒にいた。

 顔はよく見えなかったけど、彼の表情とふたりの挙措。――一瞬以下で、奥様だとわかってしまった。とても夫婦仲がいいのだとも。

 私は歩く軌道を変えて、案内所テントのそばで立ち止まり、スマホをながめて、彼らをやりすごした。

 軽はずみな行動に出なくてよかったと安堵する一方、何かを力づくでぎ取られるような痛みが、胸の内を走り抜けた。

 奥様がいたって、話しかけてもよかったんじゃないか。だけど、奥様の前で彼に「誰だっけ?」という反応をされたら、絶対にいたたまれなくなっただろう。

 ステージから流れてくる「イパネマの娘」を聞きながら、私は何も見ないようにして、ホテルへの道をたどった。



 この顔でコンビニに入りたくなかったので、ホテルの中の自動販売機で、割高の缶チューハイを買った。

 ひとりになって、私はようやく、声を上げて泣いた。

 少し落ち着くと、缶チューハイを開けて、飲んだ。飲みながら、また泣いた。泣き疲れて、眠りに落ちた。

 アルコールの影響だろう、熱くただれた夢を見た。彼が待っていた。感情のかけらをつないだようなドラムとシンバルの打音が、アップテンポとスローテンポと、変幻自在に何重にも私を包み込んだ。優しくて情熱的な鼓動に抱かれて、いろいろなものが溶けていった。私はよろこびながら、あの頃から長すぎる年月が経ってしまったことを全身全霊にいやというほど思い知らされて、やっぱり泣いた。なにもかもアルコールが悪い。


     ○


 二日酔いにはならずに済んだ。シャワーを浴びて、ホテルのレストランで遅めの朝食をとり、部屋に戻ってカーテンを開けた。

 ジャズライブは今夜も予定されていたが、彼のバンドの出演予定はもうなかった。

 店が開く頃合いを見計らって、チェックアウトした。



 純粋にジャズバンドとして振り返っても、いいプレイだった。

 私の知らない場所で、知らない時間を、どれだけ積み重ねて、今の彼になったのだろう。

 この街で暮らそうと決めたこと、ドラマーになろうと思い立ったきっかけ、テクニックをなかなかマスターできなくて苛立ったこと、挫折を感じたこと、本業で思い悩んだこと、ジャズバンドに参加した経緯いきさつ、今の奥様を結婚するほど愛おしく思ったこと……いろいろな思いのひとつひとつが、現在の彼をかたちづくってきた。どれひとつ欠けていても、こうなっていないだろう。そしてこれ以上余分なものがあっても……。

 彼のことを、すごくかっこいいと思った。奥様は男性を見る目があると思う。さすがは、彼が伴侶はんりょに選んだ女性だ。

 自分の年のとり方はどうかというと……今からでは、間に合わないかもしれないけれど。

 でも、彼と私とでは、事情が違う。

 私の前には、私の現実がある。彼の知らない日々を乗り越えて、夫と出会い、息子を生んで、今を懸命に生きている。彼に対して恥じるところも劣等感も、ない。



 同級生が、あんなにかっこいい年の重ね方をしている。

 ――そう思うと、少し元気が出た。

 また、あなたに助けてもらったね。

 ありがとうね。

 がんばって。

 お幸せに。



 買い物をして、家に帰ろう。

「すごくかっこいいジャズバンドの生演奏を聞いたよ」と、土産話ができたから。夫も息子もろくに聞いてくれないかもしれないけど、それでもいい。



 アーケードに小さく流れる「いそしぎ」に耳を傾けながら、私は店をのぞきこんだ。お土産に何を買うか、悩むために。

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