第11話

若宮社に来てから、六日目の朝を迎えた。昨日の朝から降り続いていた雨はやんでいたが、空を見上げると、どんよりとした雲に覆われていた。水汲みと滝行を終えて、社務所に戻ってきた久志彦に占いの結果が伝えられた。


仲彦の暗い顔を見れば、結果は聞くまでもなかった。神様のお許しは出なかった。また、神様のお告げとして「己(おのれ)を知り、神を知るべし」という言葉も伝えられた。久志彦は瞑想をしながら、このメッセージをどう解釈すればいいのか考え続けた。


「己を知る」とは、自分自身の性格を深く知ることなのか、それとも生い立ちや過去を知ることなのか、短いメッセージはどう解釈するかで意味が変わってしまう。


久志彦は自分自身のことを、とてもわかりやすい人間だと思っている。複雑な感情は持っていないし、思ったことは素直に口に出してしまう。好き嫌いは顔を見れば、すぐにわかると周りの人からいわれることが多い。


生い立ちや過去についてはどうか。母のことは、先日の墓参りで元の実家があった場所を訪れたとき、最後の悲しい別れを思い出した。しかし、それ以外のことは何も知らない。ましてや、父親のことは名前も顔も知らないし、生きているかどうかもわからない。


また、「神を知る」とはどういうことなのか。神話や歴史、ホツマツタヱについては少しずつ勉強しているが、まだまだ知らないことが多い。大神神社の神様についても、よくわかっていない。陶邑家で代々受け継いできた「秘伝の書」には、詳しく書かれていたのかもしれない。


その日の瞑想では、答えの出ない自問自答を、何度も、何度も繰り返した。しかし、神様のお許しが出るような「何かを得た」という実感はなかった。


その夜、仲彦の父である加茂が若宮社の社務所に慌てた様子でやって来た。その手には久志彦が預けた荷物を持っていた。


「久志彦さん、おばあさまが救急車で運ばれたそうです。すぐに病院に向かってください」


久志彦は、すぐには信じられなかった。いつも元気で、風邪をひいたこともない、あのばあちゃんが救急車で運ばれるなんて、まったく想像できなかった。


「でも、まだ、試練が終わっていません」久志彦は試練を途中でやめてもいいものか、自分では判断できなかった。


「試練は、いつでもやり直せます。しかし、おばあさまには、今、会っておかないと」加茂はそこまでいって、口をつぐんだ。言葉にしなかったが「もう、会えないかもしれない」という加茂の思いを久志彦はしっかり受け取った。


「久志彦さん、急いでください。片付けは私がしておきますから」そういって、仲彦が送り出してくれた。久志彦は加茂から荷物を受け取って、社務所を飛び出した。



夜の病院はうす暗く、とても静かだった。久志彦は看護師に教えてもらった病室を見つけると、ドアの前で立ち止まって大きく深呼吸をした。ドアを静かに開けて病室に入ると、消灯時間を過ぎていたため部屋の中は暗かった。ゆっくりとベッドに近づいて顔をのぞき込むと、ばあちゃんは眠っているようだった。


久志彦は、ばあちゃんが生きていることを自分の目で確かめて、やっと安心できた。ホッとして気が緩んだのか、足に力が入らなくなり、床に座り込んでしまった。


実のところ、慣れない滝行や水汲み、そして、自分自身と向き合い続けた瞑想で、肉体的にも、精神的にもギリギリの状態だった。久志彦はこれまでの人生で経験したことがないほど、追い詰められていた。気力で斎戒を続けていたが、想定外のばあちゃんの緊急事態で、久志彦の心と体は限界を迎えていた。


「久志彦、床に座っとらんで、椅子を使ったらどうや」聞き慣れた声が聞こえてきた。久志彦が顔を上げると、ばあちゃんと目が合った。久志彦は泣き出しそうになるのを、目に涙をためながら、ぐっとこらえた。「男が簡単に泣くもんやない」と小さい頃、ばあちゃんによく叱られたことを思い出していた。


「ばあちゃん、生きててよかった」久志彦が泣くのを我慢しながら、そういうと、

「うちも、そろそろ、あの世に行くみたいや」ばあちゃんが珍しく弱気なことをいった。そして、上半身を起こすと、久志彦に背中を向けて座り直した。


「見てほしいものが、あるんや」ばあちゃんはそういうと、着ていた上着を脱いで、久志彦に背中を見せた。そこには、ヲシテ文字が並んでいた。久志彦のモトアケ図とは違って、ヲシテ文字が四行、きれいに並んでいる。


久志彦には、ばあちゃんの背中にあるヲシテ文字が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。久志彦が目をパチクリさせながら、「えっ、どういうこと?」と間の抜けた質問をした。


「これが現れたのは、じいさんと同じで、もうすぐ寿命が尽きるという印しや」ばあちゃんは当たり前のように、そう説明するが、久志彦の理解が追いつかない。


「実は、ヲシテ文字が体に現れるのは陶邑家の当主だけやない。当主の妻にも現れるんや。これは本来なら、当主の妻だけに伝える、というのが決まりなんやけど、久志彦には、まだ妻がおらん。そして、このばあさんが死んだら、陶邑を名乗る者(もん)は、たった一人、久志彦だけになってしまう。おそらく、久志彦がこれを受け継ぐことになるやろう」


ばあちゃんの説明を聞いていた久志彦は「まさか、当主の妻にも試練があるの?」と、おそるおそる尋ねた。


「当主と同じような試練はない」ばあちゃんは、はっきりとそういったので、久志彦は胸をなでおろした。


「せやけど、伝えなあかんことはある。当主の妻には『秘伝の書』はない。せやから、代々、口伝えで、この背中に現れるヲシテ文字について伝えてきたんや。久志彦にそれを伝えるから、しっかり覚えるんやで。もしかすると、将来、久志彦の娘に受け継がれるかもしれんからな」


「わかった」久志彦は受け入れるしかなかった。まさか、当主の妻にも、体に現れるヲシテ文字があり、それを自分が受け継ぐことになるとは思いもしなかった。


「それで、ヲシテ文字が現れたのは、いつ? たしか、じいちゃんのときは亡くなる一週間前やったよね?」

寿命が尽きる印しが現れたということは、ばあちゃんとの別れも近いということだ。


「たぶん、二、三日前やと思う。背中なんて、毎日見るもんやないからな」ばあちゃんは自分が死ぬことについては、まるで他人事のようだった。


その晩、久志彦はそのまま病室に泊まることにした。ばあちゃんと並んで寝るのは、子どもの頃以来だった。


「ばあちゃん、死ぬ前にやっておきたいことはないの?」

「う~ん、そうやなあ。ひ孫を抱っこするのが夢やったけど、それは無理そうやなあ」


「残念ながら、それは無理やわ。どこか行きたい場所とか、食べたいものとかはないの?」

「せやなあ」といって、ばあちゃんは、しばらく考えてから「南港の夜景をもう一度、見たいかなあ」とぼそりと答えた。


「へえ、思い出の場所なの?」

「まあ、そうやな」


「そうなんや、じゃあ、明日、お医者さんに聞いて、問題なかったら連れて行ってあげるよ」

「そりゃ、楽しみやなあ」ばあちゃんは少し嬉しそうだった。


翌朝、担当医から、ばあちゃんの病状を説明された。心臓がかなり弱っているらしく、入院の必要はないが自宅で安静にして、しばらく様子をみましょう、といわれた。久志彦は様子をみている時間はない、と心の中で思ったが、もちろん口にはしなかった。


その日のうちに、ばあちゃんを連れて実家に帰ってきた。ばあちゃんは、家の中を片付けたり電話をかけたり、忙しそうに動き回っていた。医者からは安静にするようにいわれたが、それで、ばあちゃんの心臓が回復したとしても、寿命がもうすぐ尽きることに変わりはない。


夕方、ばあちゃんに「話がある」といわれた。仏間に行くと、ばあちゃんの前には、座布団が一枚置かれていた。ばあちゃんが座布団を用意するときは、話が長くなるということだ。


ばあちゃんは、まず自分が亡くなった後のことについて話し始めた。葬式のことや、役所への届け出、実家をどうするのか、など現実的なことを淡々と説明していく。ばあちゃんの、しゃんとしている姿を見ていると、亡くなった後の話には現実味がなかった。


「ちゃんと、聞いてるんか」ばあちゃんは少し呆れた様子だった。久志彦は力なく頷くことしかできなかった。


「しっかりせんと、もう頼れる身内はおらんのやで。どうしても困ったことがあったら、うちの妹に相談したらええけど、東京に住んでるから、すぐに助けてもらうのは難しい。久志彦も、もう立派な大人なんやから、自立せなあかん」


「わかってるよ。わかってるけど、まだ心の整理がついてない」久志彦は思わず本音を漏らした。


「そうやろなあ。うちは、じいさんが亡くなってから、自分のことも覚悟してたけど、久志彦はそこまで考えられへんわな」


そういって、ばあちゃんは大きくため息をつくと「ドライブに行こか。約束したやろ」と明るい声でいった。


「えっ、今から?」と久志彦が聞き返すと、

「うちには、時間がないねん」といった、ばあちゃんの表情は真剣だった。


「でも、車はどうするの?」

「軽トラがあるがな」


「軽トラでドライブか、ばあちゃんらしいな」

「どういう意味や!」ばあちゃんは怒ったような口調だったが、ニコニコと笑っていた。


久志彦の運転で、大阪湾の南港を目指して軽トラを走らせた。

「南港のどの辺りに行ったらええの?」

「夜景が見えて、波の音が聞こえたら、どこでもええよ」


ばあちゃんにそういわれて久志彦は少し困ったが、有名な夜景スポットに行くことにした。まさか、ばあちゃんとデートスポットに行くとは思いもしなかった。車の中では、ばあちゃんは静かに街並みを眺めていた。久志彦はあえて話しかけなかった。


久志彦が車を停めると、ばあちゃんは窓を開けて波の音に耳を澄まして、遠くを見ていた。夜景を見ているのか、何かを思い出しているのか、久志彦にはよくわからなかったが、黙って待つことにした。


しばらくすると、ばあちゃんが、ようやく口を開いた。

「昔、じいさんと一緒に見たこの景色を、もう一度見られて良かった。久志彦のおかげや」

「じいちゃんと、デートした思い出の場所ってことか」茶化すように久志彦がいうと、ばあちゃんは照れくさそうにしていた。


「ばあちゃん、寒くないの?」

「冷えてきたな。そろそろ帰ろか」


「ちょっと、待ってて」そういうと久志彦は車を降りて、自動販売機を探した。ホットの缶コーヒーを買って車に戻ると、ばあちゃんに手渡した。


「じいさんも、よく缶コーヒーを買ってくれたわ。懐かしいなあ」ばあちゃんは、とても嬉しそうだった。いつも厳しいばあちゃんが、とてもかわいらしく見えた。


南港からの帰り道、ばあちゃんは自分が亡くなった後のことを、再び話し始めた。久志彦は、少しずつ受け入れながら、心の整理と準備をするように自分自身にいい聞かせた。


「背中のヲシテ文字のことやけど、これは『アワウタ』というんや。ヲシテ文字の四十八文字で構成される、いろは歌みたいなもんやな。これを、すべて覚えること。読み方は、帰ってからちゃんと教えるから、しっかり覚えるんやで」


三日後、ばあちゃんは眠るように穏やかに亡くなった。久志彦には微笑んでいるように見えた。

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