8

 一週間経つと篤さんは大阪に戻り、義父とふたりの生活になった。あたしは大学を休学し、カウンセリングのために心療内科に通うこととなった。

 週に一度の面接を終えて、病院の待合室に向かった。雑誌を読んでいる義父に声をかけると、義父は「お疲れさま」と微笑んでくれた。

「お義父とうさん、これから仕事?」

「午後出勤の予定だよ。お昼でも食べて帰ろうか」

 景気づけに寿司にしよう、と立ち上がる義父の背中を見つめる。義父はなんとか仕事の都合をつけ、通院に付き添ってくれていた。ありがたくて――申し訳なかった。

 あたしたちは病院を出ると、義父の運転で行きつけの寿司屋に向かった。母と義父が結婚したばかりの頃に連れて行ってもらったお店なのだが、あたしがそこのアラ汁を二回もお代わりしたのを覚えていて、何かにつけては連れて行ってくれる。

「もう大学に行っても大丈夫だって」

 過ぎ去る街並みを助手席で眺めながら、あたしは義父ちちにそう伝えた。

「無理しなくていいからな」

「うん。でも家に一人でいるより気がまぎれるし、勉強したいんだ」

 ステアリングを操作しながら、義父は笑った。

「偉いなあ、詩織さんは」

 勉強したい気持ちは本当だった。せっかく行きたい大学に通わせてもらっているというのに、無為な時間を過ごしているのがもったいなかった。

 やがて車は駐車場に滑り込んだ。

「腹が減ったなぁ」

 そう言いながら、義父は寿司屋の暖簾を潜る。後に続いたあたしは、ふいに吐き気を覚え、足をとめた。

 義父が驚いたように振り向いた。

「な……何でもない」

 強烈な酢の臭いに、思わず口元を抑えた。いつもの嗅ぎなれた匂いであるのにどうしてこんなに臭いのか。

 胃から熱いものがせり上げてきて、あたしは思わず店を飛び出し、歩道脇にしゃがみこんだ。

「詩織さん、どうしたんだ」

 義父が慌てて後を追ってきた。

「……なんだか急に気持ち悪くなっちゃって……。ごめんなさい」

 不安げな義父の眼差しに、あたしは慌てて立ち上がった。

「最近ずっとだるくって。こんな自堕落な生活してるから身体が変になっちゃったのかも」

 笑顔を作って見せた。だが、義父の顔は強張ったままだった。

「詩織さん。病院に行こう」

「大丈夫。ちょっとだるいだけだから」

 義父は「そうじゃなくて」と言葉を切り、意を決したように目を上げた。

「――産婦人科に」

 あたしはきょとんと義父の顔を見た。そして、気づいた。

(そう言えば、生理がきていない)

 さっと全身から血の気が引いていった。あの気違いじみた男との悪夢のような日々が脳裏に蘇る。

 全身から力が抜け、ふたたび膝をつきかけたところを義父に支えられた。

「お……お義父とうさん……どうしよう……」

「落ち着きなさい。大丈夫だから」

 がくがくと震えるあたしの肩を、義父はぐっとつかんだ。

「……堕ろすわ。まだ間に合うよね?」

 思わず涙ぐみそうになりながら、義父を見上げた。義父はまっすぐあたしを見ている。

「詩織さんがどちらの選択をしようが、僕は力になるよ」

「選択なんてない!!」

 往来を歩く人々がぎょっとしたようにこっちを見た。

 あたしは怒りと怖れにうち震えた。西森あいつに、どれだけひどい目に遭わせられればいいのだ。

 ようやく通学も許され、やっと元の生活に戻れるところだったのに――。

 義父はあたしの手を引いて寿司屋の前から遠ざけた。そのまま駐車場を通りすぎ、道沿いのベンチに座らせる。

 食べ物のにおいから逃れ、あたしは大きく息を吐いた。

「何か飲むかい」

 首を振るあたしの隣に、義父は座った。

「……なあ詩織さん。相手はどうあれ、その子は詩織さんの子供だ。君と唯一同じ血をひく人間なんだよ」

 義父は車の行き来を眺めながら、穏やかな口調で言った。

「僕も篤も、君の家族だ。だが同じ血を持つ人間というものは本当に特別な存在なんだ。僕は男手ひとつで篤を育ててきた。しんどいこともたくさんあったけど、血のつながった家族がいるというのはそれだけで支えになるものだ」

 あたしはいまだ震えのとまらない手で、腹部に触れた。

 真っ平の、いつもとまったく変わらないお腹。この中に、あたしと――そして母の血を継ぐ人間が入っている。

(だからなんだっていうの……!)

 目に見えない何かに寄生され、この身がむしばまれているようにしか思えなかった。しかも、それは西森にうえつけられたのだ。

(子供なんて、ぜったいに産むものか!)

 あたしは両手で顔を覆った。

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