7

   ***


 金属音が意識の那辺に響いた。

 あたしはまどろみの中から一気に覚醒した。玄関ドアの鍵を開ける音と気づいたのだ。

(寝過ごした!?)

 ベッドからがばりと起き上がった瞬間、全身を激痛が貫いた。

もう、講義は終わったのだろうか。時計がないので時刻はわからない。

 脈打つ痛みをこらえながら、枕元に置いてあったシャワーホースをつかみ取った。俊敏な獣のようにドアの脇に立つ。ほぼ同時にドアレバーが下がった。開いたドアの間隙に帽子のつばが入りかけたのを見計らい、意を決してシャワーホースを投げかけた。

 ホースは弧を描き、すぽんと首にかかった。一番の難所と思っていたところがあまりにスムーズにいったことに驚きながらも、すぐさま身をひるがえし、肩を支点にしてホースを思いっきり引きおろした。

 ぐう、と呻き声が背中越しに響いた。ホースが肉を圧する手ごたえに、殺意がどっと込みあげる。

 ――殺してやる、殺してやる!!

「やめて詩織! その人、西森じゃない!」

 女性の叫び声に、はっとして手を緩めてしまった。ホースが掌をすべってゆき、背後で重たいものが倒れた気配がした。

 振り向くと、制服を着た警察官が喉を抑えて激しく咳き込んでいる。

 西森じゃない――愕然として顔を上げると、開け放たれたドアの向こうには警察官がもう一人、その後ろにはマンションの管理人らしきおじさんが呆然と立ちすくんでいた。そして、あまりに懐かしい顔があった。

「……相沢さん」

 相沢さんは青ざめ、震えていた。あたしは信じられない思いでその顔を見つめる。

「なんてひどい……」

 そう呟いた相沢さんの大きな目から、涙がぼろぼろと零れた。

(……助かったの?)

 安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。そこをぐっとこらえ、三和土に座り込んだお巡りさんの元にしゃがみこんだ。

「……すみません。西森かと思って……」

 四十代前半と思われるお巡りさんは、激しく咳き込みながらもやんわりと手を掲げて「いいんだ」と言った。

「それより、その痣は西森にしもり文哉ふみやが?」

 力なく頷くと、お巡りさんは痛ましそうに顔をゆがめた。

「彼女――相沢さんが直接交番に来て、友達が監禁されているかもしれないと情報提供してくれたんだ。ご実家から出ていた捜索願と名前が一致して、話が早かった。……六日間もよく耐えたね」

 ――六日?

 愕然とした。あの終わりのない地獄のような時間が、たった六日だったなんて。

 あたしは相沢さんとともにパトカーで警察署に向かった。道すがら相沢さんが話してくれたことには、西森はあたしを監禁している間、何食わぬ顔で大学に通っていたという。

 彼女が連日休んでいるというのに、当初はひどく上機嫌で、浮かれているといってもいいくらいだったらしい。

「詩織が休みだして三日経った頃あたりから、西森のようすがおかしくなったの」

 しだいにやつれ、ひどく苛々していたという。

「彼女が失踪したんだから当然かもしれないけど……。大学に訪ねてきた詩織のお母さんからも逃げ回っていたみたいだし、どう考えてもおかしかった。だから講義後に後をつけたのよ」

 西森は実家暮らしであるのに、ひとりで食べるには多すぎる食糧をコンビニエンスストアで買い込んでいたという。そして自宅とは違う路線の電車に乗り、例のマンションに入っていったらしい。日が暮れる頃にエントランスから出てきてた西森は、憔悴し、泣き出しそうな顔をしていた。それだけでも十分に不審だったのだが、その手には血のようなものがついていて、相沢さんはその足で交番に駆け込んだという。

「詩織……生きててよかった」

 相沢さんの細い肩は目に見えるほどに震えていた。喉からあついものがこみあげてきて、たまらずその肩を抱きしめた。

「……ありがとう。相沢さんは命の恩人だよ。この恩は、一生忘れない」

 相沢さんは嗚咽をあげて泣き出した。肩口が熱く濡れて、あたしは震える華奢な背中をいつまでも撫で続けた。



 警察署で相沢さんとは別れ、あたしは待合室のような部屋に通された。あの時、首を絞めてしまったお巡りさんが温かなカフェオレを手渡してくれた。

「今からご家族がいらっしゃるから」

 部屋から出てゆくお巡りさんの背中を眺めながら、紙コップのカフェオレを啜った。甘さがじんわりと身に染みて、ようやく生きて戻れたことの実感がわいてくるようだった。

(……やっとお母さんに会える)

 母のことを思うと急に気が緩み、じんわりと涙が込み上げてきた。

 どんなに心配かけただろう――母だけでなく、お義父とうさんにも。本当に申し訳なかった。

 がちゃりとドアが開き、女警さんが顔を出した。

「親御さんが迎えに来てくれましたよ」

 女警さんは「どうぞ」とドアを大きく開いた。部屋に入ってきたのは、義父と、大阪にいるはずの篤さんだった。

(お母さんは?)

 きょとんと目を見開くあたしに、義父が駆け寄ってきた。

「詩織さん、無事でよかった……」

 義父の泣き出しそうな顔を見て、あたしはぎょっとした。六日会わなかっただけなのに、恐ろしくやつれていたのだ。目は落ちくぼみ、別人のようだった。

 その後ろの篤さんの表情は硬い。あたしは不安が足元から這い上がってくるのを感じた。

 どうして母が来ていないのだ。心労で倒れてしまったのだろうか。いてもたってもいられず、義父の黒ずんだ顔を覗き込む。

「迎えに来てくれてありがとう。……あの、お母さんは……?」

 義父の、あたしを見つめる瞳が震えている。

「公香さんは――」

 ――事故に遭って、義父は口を押えた。嗚咽と共に涙が頬を伝ってゆくさまを、あたしは呆然と見つめた。

 篤さんは義父の肩を抱きながら、あたしに目を向けた。

「公香さんは……亡くなったんだ。三日前に」

 何を言っているのか、理解できなかった。言葉を失ったあたしを、篤さんは痛ましそうに見つめた。

「詩織ちゃんがいなくなった後、公香さんはひとりで君を探していたんだ。大学にも行ってゆくえを聞きまわっていて……。その時に、轢き逃げに遭って」

 篤さんは視線をさまよわせると、意を決したようにあたしを見た。

「逮捕された西森という男が、公香さんを車で轢いたと供述したらしい」

 一瞬、まわりの音が遠のいた。時間が止まってしまったような錯覚を覚えた。

「公香さんに君のことを聞かれた西森は、その足でレンタカーを借りたらしい。その後、大学から帰る途中で、横断歩道を渡ろうとしている公香さんを……」

 かくん、と膝の力が抜けて、へたり込む。篤さんがあたしの身体を抱きとめた。

「……あたしのせいだ」

「違う。詩織ちゃんのせいじゃない」

 篤さんがきっぱりと言った。

 あたしの脳裏には、トラックに轢かれた近藤の姿がまざまざと思い出されていた。

(――あたしがやったことの因果が、母に返ったんだ)

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