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「監禁のコツは、逃げ出す意思を無くさせることなんだってさ」

 狭い部屋を逃げ回り、大暴れするあたしをようやく捕まえた西森は、背後から耳元にそう呟いた。講義後まっすぐ部屋に寄ったのであろう西森からは、すでに懐かしい、外の匂いがした。

 あたしは後ろから羽交い絞めにされた状態で、踵で脛を蹴り上げた。思わずのように腕が緩み、その一瞬の隙に後頭部で頭突きしてやった。西森は呻いて顎を押さえた。鼻か眼鏡を潰してやるつもりだったが、身長が足らなかったのだ。

 駆け出しかけたあたしの髪を、西森は鷲づかんだ。そのまま引き倒し、床に組み敷いて馬乗りになる。

怒りに燃えた目と、視線がかち合った。

(殴られる!)

 あたしは両腕で自分の頭を抱え、縮こまった。西森はかまわず腕に拳を何度も振り下ろす。

 最初はよいおっと風情ふぜいを演じて夫婦ごっこをしようとする西森だったが、最後には決まって暴力をふるうことになる。

 遊びにつきあってやれば痛いこともひどいこともされなくなるのだろうが、あたしは決して折れなかった。一度屈してしまえば、もう二度と抵抗できなくなるだろうことがわかっていたからだ。もうそれは自分との戦いだった。

 西森は渾身の力で拳を叩きつける。腕が熱を持ち、骨が軋んでいるのがわかった。骨折の恐怖に駆られかけたとき、ふいに衝撃がやんだ。

「……なんでつきあってるのに、一度も好きだって言ってくれないんだよ」

 交差した腕の隙間から覗くと、西森が泣き出しそうな顔で見おろしていた。

 あたしは腕の防御を解いた。ここでいったん暴力がやむことは、数日の経験からわかっていた。

「好きだ。愛してる」

 西森が唇を重ねてきた。手が服の下を這い回る嫌悪感に吐き気をもよおしながらも、もう抵抗する気力も果てて、あたしは白い天井を見つめた。

 この場に悪魔がいなくてよかった。もしいたら、西森の死を願っていただろう。貴重な最後の願いをこんな糞野郎のために使うのは絶対にごめんだった。

 帰り際、ドアの前で西森は一度振り返った。

「……いってきます」

 泣き出しそうな顔だった。自分で暴力をふるっていながら、それを後悔しているのだ。

 まともじゃない。せっかくの育ちの良さも学力も、いかれっぷりには何の矯正力もないのだなと乾いた感想が浮かんだ。

 冷めきった目で一瞥すると、西森は傷ついた顔をして部屋を出て行った。

(泣きたいのはこっちだ……)

 ドアが閉まると、ゆっくりと身を起こした。体中が痛い。特に顔と腕、下腹部が。

 床には明るい色の毛束がいくつも落ちていた。腫れあがった腕でゆるゆると頭皮に触れる。引き毟られたところから血がにじんでいたり、所々がかさぶたになっていた。

 鏡がなくて確認できないが、どんなにひどい姿をしていることだろう。

 あたしは西森が置いていったコンビニの袋をあさり、ペットボトルの緑茶を引っ張り出した。小刻みに震える手でやっとキャップをひねると、喉を鳴らしてごくごくと半分ほど一気にあおる。血の味がし、ひどく傷にしみた。

 床に放り投げてある紙袋を引き寄せ、中から真新しいブラウスを引っ張り出すと、緑茶を染み込ませて腕に当てた。赤く熱を持った肌にひんやりと心地よい。緑茶には殺菌作用があるというが、効くのだろうか。

(……今日で何日目だろう)

 すでにトイレの鍵もお風呂場のロックも壊され、逃げ場がなかった。もうやられ放題である。悔しささえ湧いてこず、ぼんやりとした徒労感が去来しただけだった。心が死んでしまったようだ。

 抵抗できるものも何もない。先日、西森の二の腕にボールペンを突き刺してやったときに、所持品はバッグごと取り上げられてしまったのだ。

なんで腕なんか狙ったんだろう。目を狙うべきだった。痛恨のミスである。

(バッグに、篤さんからもらった万年筆が入ってたのに……)

 じわりと目頭が熱くなり、慌てて振り切る。今、篤さんのことなんて考えてしまったら、心が弱くなってしまう。致命的だった。

 あたしは西森の置いていったレジ袋を引き寄せた。コンビニ弁当が三つ重なっていた。今夜のぶんと、明日の朝と昼のぶんである。

 一つ取り出し、プラスチックの蓋を外してがつがつと貪った。体力をつけなければ。戦える体力を。身体が弱ると心も弱くなる。

 なんとか弁当を平らげ、残ったペットボトルの緑茶を飲み干し、手の甲で口元をぐいっと拭った。

 絶対的な力の差を埋めるためには武器が必要だった。なのにこの部屋はほんとうに何もない。

 あの小型冷蔵庫も撤去されてしまった。玄関で待ち伏せて、ドアが開く瞬間に頭めがけて振り下ろそうとしたのだが、あまりの重さに動作が遅れ、足を負傷させただけになってしまったのだ。

 その後に受けた暴行を思い出し、震えが込み上げた。呼吸が切迫し――あたしはかたく目をつむり、恐怖をやり過ごした。

(どんな目に遭わされようとも、絶対に折れるものか)

 深く息を吐いて呼吸を整え、顔を上げた。

 空になった弁当箱を水で軽くゆすいでシンク内に立てかけると、お風呂場に向う。

 浴室はユニットバスだった。あたしはシャワーヘッドを手に取り――駄目だと溜息をついた。こんな軽いプラスチックでは殴ったって鈍器のようにはいかない。

 ヘッドのほうでなく、ホースはどうだろう。白い樹脂製のシャワーホースをぐっと引っ張ってみる。ずいぶん丈夫そうだった。

 これで首を絞めて殺すことはできるだろうか。くるりと首に引っ掛けて、背負い投げのようにしてホースを引けば、このあたしでも結構な力で締め上げられないだろうか。

(殺せなくとも、首に掛けられたなら、引き倒せるかもしれない。その隙に外に逃げることができれば……)

 駄目だ――あたしは歯を食いしばった。

(……そんな考えじゃ勝てない。殺すつもりで挑まなきゃ)

 玄関で待ち伏せて、絞殺するのだ。

 西森が外から部屋に入ってくる瞬間が勝負だ。ドアを開ける瞬間は幾度となく奇襲をかけてきたから、おそらくずいぶん警戒されているだろう。

(でもやるしかない。やってやる――)

 西森はあたしを殺せないが、あたしはできる。それがあの男に勝る何よりの武器だ。

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