六
1
わたしは会社のエントランスから走り出ると、パンプスでビル街を駆け抜けて最終電車に飛び乗った。
スクリーニングに手間取って、遅くなってしまった――。
息を切らしながらスマートフォンで時間を確認する。すでに午前零時を回ろうとしていた。
今日ばかりは二十時までには研究所を出る予定だったのに。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
今日は
仕事で帰りが遅いわたしのかわりに、義父が娘を食事に連れて行ってくれると言ってくれた。せめてケーキくらいは買って帰ろうと思ったのに、こんな時間ではお店はどこも開いていない。
(母親失格だ……)
闇夜に塗りつぶされた電車の窓に白く映る自分の顔をみつめ、溜め息をついた。
わたしは、はからずも母親と同じ母子家庭の道をたどっていた。ただ自分が子供の頃とは違い、お金には困っていない。
出産のため大学を二年休学した
お給料は今のところ多くも少なくもないが、会社役員の義父の給与と合わせたら結構な収入になった。だがいつまでも義父に甘えてばかりはいられない。わき目もふらずにガツガツ働き、日々に忙殺されるうち、気づけば三十六歳になっていた。仕事場でももう中堅である。
(分子化合物のデザインだけ終わらせてドッキングシミュレーションは任せてきたけど、大丈夫かな。あっ、アルバイトの学生にCO2インキュベーターのpHモニタリング、ちゃんとやるよう言い忘れた)
仕事を任せてきた後輩や頼りなさげな学生たちの顔が浮かんできて、あたしはそれを振り切るように頭をぶんぶんと振った。
タクシーに乗り込み、運転手に自宅の住所を告げる。
(そういえば、しばらくあの子の顔、見てないな……)
娘の顔を思い出そうとすると、赤ちゃんのころやランドセル姿ばかり浮かんできた。娘はもう高校三年生だというのに。
――ママ、おかえりなさい。
ほっとしたように笑う幼い娘の笑顔が脳裏をよぎり、ふいに泣き出したくなった。娘が保育園のころ、深夜に帰宅していたわたしを、毎夜、眠い目をこすりながら布団から抜け出して出迎えてくれた。そして園で作った紙工作や絵を出してきて見せるのだった。
(
学校の成績はそれなりに良いようだが、友人関係はどうなのだろうか。彼氏はいるのだろうか。
今さらながら娘のことを何一つ知らないことに愕然とした。手がかからなくなってゆくのをいいことに、仕事に没頭していったつけである。
(今度二人で食事に行こう。母子水入らずでいろんな話をしよう。今月中は無理だけど、来月中には必ず――)
仕事のスケジュールを頭の中でパズルのように組み立てているうちに、タクシーは閑静な住宅街に入っていった。
運転手に料金を払い、明かりの消えた家の前に降り立つ。義父も娘も、もう寝てしまっているようだった。
音を立てないように鍵を開け、玄関でバッグの中から小さな包みを取り出す。娘への誕生日プレゼント――セーラーの万年筆である。
昔、義兄の篤から大学の入学祝いにプレゼントしてもらったものと同じものだった。義兄は「女の子が好きなもの、よくわからなくて」と言っていたが、わたしもまったく同じだった。
娘の欲しいものなど、全然わからない。
現金が一番いいのではないかと二児のパパである同僚に相談したところ、呆れられ、こっぴどくたしなめられた。多忙な中で時間を使い、悩んで選ぶことこそが大事なのだと。
(喜んでくれるといいのだけれど)
その時はたと気づいた。手渡すタイミングがない。明日も娘が起きてくる前に出勤しなきゃならないのだ。
(そうだわ。直接手渡しできないのなら、枕元に置いてみたらどうだろう)
まるでクリスマスプレゼントのように。不意の思いつきに一瞬わくわくとしたが、その気持ちはすぐに不安に塗りかわっていった。
(……勝手に部屋に入ったりなんかしたらきっと怒るよね)
それとも、素直に喜んでくれるだろうか。亡き母がそんなことをしてくれたら、わたしだったら飛び上がるくらいに嬉しい。
でも、梨央は?
わからなかった。我が子のことなのに、想像さえできない。
(箱のままごみ箱に突っ込まれていたらどうしよう……)
わたしは固く目をつむる。
(それならそれでかまわない。それくらい、あの子をないがしろにしてきたんだから)
拒絶されることを恐れる資格さえ、わたしにはないのだ。
上品にラッピングされた小箱を手に、足音を忍ばせて娘の部屋に向かった。この誕生日プレゼントが娘の気持ちをはかる試金石となると思うと、胸が震えた。
子供部屋のドアの前に立つと、ふいに懐かしさが込み上げてきた。そこはかつてわたしが使っていた部屋だった。娘が小学校に入学するのを機に、わたしは母が使っていた部屋に移り、この部屋を娘に譲ったのだ。
寝ていると思うとノックもはばかれ、そっとドアを開けた。ドアの隙間から本棚と勉強机が覗く。自分が使っていたころとそのままの配置だった。
おずおずとドアレバーを押したところで、手がぴたりととまった。
ドアの隙間から漏れ出る濃厚な気配に気づいたのだ。
全身から冷たい汗が吹き出し、足元から震えが立ち上ってきた。強制的に喚起される恐怖――わたしはこの気配をよく知っている。
(……まさか。そんなわけない。《あれ》がこんなところにいるわけない……)
怖ろしい予感に押しつぶされそうになりながら、ドアを開いた。
「……ああ」
絶望の声が漏れた。
ベッドですうすうと眠る娘の隣には、悪魔が横たわっていたのだ。
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