第40話

 すっかり気温も上がってきて、カレンダーはもう六月。

 クラスメートは皆、夏服姿。オフホワイトのワイシャツの背中ばかり。

 昼前の気だるい頭には少々眩しい光景だ。

 あれから一週間。教室での赤坂は目に見えて変わった。


「委員長。これ手伝おっか?」

「え、いいの? 赤坂さん」

 プリントの束を抱えた黒髪女子の元に赤坂が駆けつける。


「これ次のロングホームルームのやつだよね? 一緒に配ろ」

 かつては、常に他人行儀で距離を置いて来た赤坂。

 しかし、その頑なさも若干角が取れてきたと思う。これまで関わる事の無かった女子にも積極的に話しかけるようになった。

 クラスの皆はその変わりっぷりに、最初こそ戸惑っているようだった。しかし、それも最初だけ。徐々に受け入れられ、今ではそれなりに発言もする活発な女子生徒というイメージがついてきている。

 代わりに、俺が赤坂と会話する機会はめっきり減ってしまったけど、彼女が楽しそうにして過ごしているなら、それで良かったのかなと思う。


「よっ、夏生。相変わらず陰気臭い顔してんなあ」

 そんな風に教室前方の様子を見ていたら、諌矢が声を掛けてきた。

 見上げた先の長身痩躯は、乳飲料のストローに口を付けながら何故かご機嫌そうな顔。


「何だよ」

「いやあ、相変わらず陰気臭い顔してるなあっておもってさ」

 言いながらすぐ前の椅子に腰かける。


「その陰気臭いのに構っていいのかよ。諌矢の評判が下がるぞ」

「そんなんで評判が下がるなら、それは俺の形をした別の何かだ。風晴諌矢なんかじゃない」

 俺とは違って自信たっぷりの顔で、諌矢はうそぶく。


「定期試験で倒れたの、お前のせいだからな。俺の中での諌矢の評価はだだ下がりだよ」

「はっは!」

 言い返すと、諌矢は良く通る声で笑い飛ばしてみせた。

 うーん、まるで気にしていないこのメンタル。見習いたいな。


「そういやさ、最近は赤坂さんと一緒にメシ食ってないの?」

 椅子に肘を乗せながら、赤坂の方を一瞥する諌矢。その先ではプリントを配る赤坂に何人かの女子が集まっていた。その中には赤坂と同じ中学だったという渡瀬さんの姿も見える。


「赤坂は屋上で一人でメシを食ってるんだよ。一緒じゃなくて悪かったな」

「ふーん」

 俺が蹴破った屋上の鍵は、今もそのままだ。見回りの先生にいつバレるだろうか。

 まあ、しばらくは赤坂には屋上で有意義なぼっち飯の時間を過ごしてもらいたいものだ。


「つーかさ。お前らの関係って本当謎だよな!」

「俺も全く、さっぱり分からん」

 その即答っぷりに諌矢は堪えるように肩を震わせた。

 そんな風に今日も休み時間はゆるりと流れる。

 友達に囲まれている赤坂は渡瀬さんのヘアゴムを見て、可愛いとか言い合っている。

 本当にほっこりする光景だ――


「うっ……!」


 と、そこで俺は一人悶絶した。


「何だよ。またいつものやつ?」

「そうみたいだ……」

 恐る恐る言い返すと、呆れ顔の諌矢。

 俺に襲い掛かって来たのは本当に久方ぶりの腹痛だった。最近無かったのに、本当久しぶり。


「昨日食べ過ぎたせいか。いや、それとも」

 朝に乳飲料を飲んだからか? しかし、苦痛のあまりそれ以上の言葉は出なかった。

 俺は机に突っ伏すようにしながら、腹痛の波が静まるのを待つ。


「もう少しの辛抱だって。これ終わったら昼休みだろ? 大丈夫いけるいける」

 諌矢はそう言いながら前を向いてしまう。助け船を出してくれる事は無い。

 まあ、当たり前か。この腹痛は俺一人で対処しなければならない、自分自身の問題なのだから。

 でも、やっぱり痛いよ、苦しいよぉ。


「また地獄の時間が始まるのか……」

 見ると、時計は既に授業開始一分前。

 何とかこの時間を耐えきって、昼休みと同時に美祈さん家に駆けこんでトイレを借りよう。

 もし、間に合いそうになかったら最悪途中でトイレに抜けるしかない。手を挙げて注目を浴びるのは仕方ないが、漏れるよりはマシだ。

 緊急対応時のプランを脳内で二重に構成。この授業中はとにかく腹痛の波をコントロールしつつ耐える事に注力する。




「何とか今回は無事に切り抜けられたようだな」

 昼休み。美祈さんの家で無事用を足した俺は、学校へと戻る道を歩いていた。

 両側の歩道の桜の木には、すっかり緑が生い茂っている。

 木漏れ日でアスファルトが水面みたいにキラキラ瞬く中、俺は坂を上る。

 六十五分間の授業。その長丁場を丸々耐えきった。

 大抵の腹痛は昼食後に訪れるのだが、まさか昼前に襲われるとは思っていなかったよ。

 高校生活であと何回こんな不運が起こるのだろうか。考えただけで気が重い。


「あ」

 と、坂の途中で見覚えのある赤髪がふわりと舞った。


「……あ」

 ちらとこちらに向けられた視線。パン屋の袋を小脇に抱えた赤坂は俺を見ると、少しだけ眉根を寄せる。


「くそ。今日は弁当じゃなかったのか」

 またこのパターンかと思う。

 これじゃ、同じタイミングで教室に戻ることになってしまうじゃないか。


「赤坂は相当嫌がるだろうな」

 クラス内で俺達が付き合ってるなんて噂、赤坂にとっては眉唾物だ。

 最悪俺はここで時間を潰すか。とにかく同じタイミングで教室に戻らないようにすればいい。


「ねえ」

 計画を練る俺に、赤坂が声を掛けてくる。


「聞こえてんの?」 

 すごくはっきり声が届いたので不思議に思ったが……よく見ると昼日なかにも関わらず、この界隈を歩く人間は俺と赤坂だけ。


「授業遅れるよ?」

 くっきり耳に残る、赤坂の鼻にかかった可愛らしい声。

 結わえられたツーサイドが温かみを帯びた風に揺れている。


「今行こうと思ってたんだよ」

「嘘。一之瀬は下らない事をいちいち気にし過ぎなんだよ」

 そう言ったきり、回れ右をして駆けていく。

 通りの建物に反響してぱたぱたと響いた靴音だけが耳に残る。


「よく言うよ」

 自分だってあれこれ気にして教室で拗らせてた癖に。

 そんな事を思っていたら、走っていた赤坂は急に足を止めた。


「早くしなよ。超遅い」

 やたらと気にしたように振り返る辺り、どうやら俺を待ってくれているらしい。

 辟易しつつも、彼女の背中をゆっくりと追った。

 何故か俺の頬は緩く吊り上がっていて、それを必死に抑えようとするのは難しかった。

 振り返るなよ? こんな顔、見られたくない。坂を上る赤坂の背中を見ながら念を押す。

 そうしていたら、ひらりとスカートの裾が翻る。


「何にやけてんの? きもいよ?」

 ああ、やっぱり。振り返るなと思う時に限ってこうなるんだ。

 いつもこんな事ばかりだ。

 お腹も同じで、気にすればするほど悶絶するような腹痛が舞い降りてくる。


「うるさいなあ」

 また明日も、俺は教室で一人腹痛に耐えているのかもしれない。

 普通の高校生なら恋愛、勉強、部活とかいろんな楽しい事で悩んでいるのに、こんなしょうもない体質でいちいち悩み続けるなんてアホだと思う。

 だけど、俺が学校の個室トイレに入るのを恐れているみたいに、赤坂もいろいろ悩んでいる。

 俺達だけじゃない。クラスの立ち位置やら成績に悩む学生がいたり、一日の株価、仕事で抱えられた重責を気にして生きている大人だってたくさんいる。

 でも、俺が株価なんて興味ないように、知らない人からすれば、他人の悩みなんて取るに足らない事ばかりだ。そんな下らない悩みを抱えながら、進まなければならないんだと思う。


「ねえ、一之瀬。ドア蹴り過ぎて足でも痛い?」

 おもむろに赤坂がそんな事を言う。

 指さした先は俺の膝。制服の黒いズボンの下には未だにでっかい湿布薬が貼ってある。


「それにしたって言い方だよな」

 誰のせいでこんな足になってしまったのか。

 でも、目の前の少女は妙にご機嫌なので言わないでおいた。


「あーおかし。本当に一之瀬ってお人好しの馬鹿」

 黙っていたら案の定、追の口撃。


「知ってるよ。だから、馬鹿とか言うなよな」

 不貞腐れる俺に、赤坂は一層楽しげに笑った。

 頭上の桜はすっかり若葉生い茂る緑。それなのに赤坂は並木の下を弾んで歩く。

 その表情はまるで、降りしきる花びらにはしゃぐ子供のようだった。


「でも、そういう馬鹿は、私は良いと思うんだけどね」

 赤い髪を揺らしてこちらを振り向く。


「馬鹿も何も――」



 俺をこんな風にさせたのはお前なんだからな、赤坂。



 春までは桜が満開だったこの道。

 頭上はとうの昔に緑の葉に生え変わり、今ではもう華やかさの欠片も無い。

 それでも何故か、心はずっと軽い。

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