第38話

 季節は衣替えの時期。教室内も清涼感溢れる白のワイシャツが目立ってきた。

 窓の先に広がっているのは日本晴れというのだろうか。雲一つない青がひたすらに眩しい。やがて始まる夏を予感づける、そんな色。


 それもあってか、廊下側では活発そうな女子グループが笑い声を上げ、教室後ろでは須山が馬鹿っぽい男子を集めてテンション高めに騒いでいる。

 しかし、活気溢れた昼休みの教室の中で――今日も赤坂は一人、机に座って過ごしていた。

 彼女の周囲の席だけが、暗黙の了解で不可侵領域になっているかのように人がいない。


「何かさぁ、赤坂さん。最近感じ悪いよね」

 俺の席近くを陣取った西崎グループ。その中の一人が小さく呟く。


「紫穂。そういうのやめなよ」

 竹浪さんは小声でその女子を諫めているが、西崎は机の上で足を組みながら黙々とスマホをいじっている。興味もなさそうな顔。

 しかし、他の生徒達は皆教室内の陰鬱さを感じ取っていて、空気全体がピリピリしていた。

 教室というのは、集団で動く一つの生き物みたいだ。その中でイレギュラーな動きをする奴は目立つし、排除の対象になる。

 今回はその番が赤坂に回った、それだけの事だ。

 まあ、彼女自身が皆にあからさまに距離をとって壁を作っているのだから、そういうのが気に食わない連中は敵対視する事もあるんだろう。仕方ないのかもしれない。


 でも……凄く嫌な感じだ。

 俺は、教室の空気に耐えられなくなり、とうとう席を発つ。

 そして、気づけば赤坂の前に歩み出ていた。


「……何?」

 頬杖をつきながら赤坂が上目で俺を見る。鬱陶しいと言わんばかりの表情。


「あのさ、ちょっと来てくれないか?」

「やだ。つーか、こんな場所で普通言う?」

 ぴしゃりと拒絶した後に小声で付け足す。しかし、俺がここで話そうと持ち掛けた所で、赤坂が聞いてくれない事は分かっている。


「大事な話があるんだ」

「はあ?」

 だから、多少なりとも盛る。

 もしかしたら、近くの連中には別の意味で取られているかもしれないけど、もうこの際は構うもんか。

 いつもの俺ならこんな事をすれば周りにどう思われるかとか、考えてしまう。

 しかし、後ろ向きな考え方に捻じ曲げてしまう雑念は、今は鳴りを潜めていた。


「頼む。来てくれ。見せたい物がある」

 俺達を見ている無関心を装った多くの目。それらが俄かにざわつくのを肌で感じる。

 舌打ちをする赤坂。俺が下がる気配が無いのを悟ったのだろう。


「そういう言い方だと、行くしか無くなるじゃない」

 立ち上がり、心底面倒そうに横目をくれる。

 周囲の視線に晒されながらも、俺達は教室を出た。



 向かった先は、旧校舎の古い階段だった。

 四階から先の踊り場には不要物なのだろうか、古びた机やら、かび臭い段ボールが積み重なれている。

 それらを横切って、屋上へと繋がる扉の前に辿り着く。


「昼休みも終わるってのに、人をここまで連れてきて……何のつもりよ?」

 槍で背中をつつかれるような、きつい声音。


「赤坂が人の寄り付かないトイレを探してくれたみたいに、俺もお前が落ち着いて過ごせる所を探したんだよ」

「それがここ?」

 振り返った先、数段下からこちらを見上げる顔は苛立ちを隠そうともしない。

 でも、どうしてもこの場所に赤坂を連れてきたかった。


「俺にとって、美祈さんの家は落ち着ける居場所だ。切羽詰まった時も、あの真新しいトイレに駆け込むと魂が救われた気持ちになる」

「いきなり何を語っちゃってんの?」

「赤坂にもそういう場所があれば、今よりマシになるんじゃないかって思ったんだ」

 不思議がる赤坂に、俺は言い返す。

 錆が目立つ扉にはプラスチックの白い札が張り付けられていた。いかにも古めかしい字体で『立ち入り禁止』とだけ記されている。

 旧校舎の四階なんて昼休みでも生徒が寄り付かない場所だが、喧騒のような物は反響してくる。

 それはまるで水底から聞く地上の音みたいに遠くて、ここにはやはり俺達しかいないんだって思い知らされる。

 美祈さんと話してからずっと、俺はどうやったら赤坂が楽しく学校生活を送れるか、無い頭で一生懸命考えた。

 そして、ようやく見つけた場所がここだったのだ。


「この屋上ならきっと、晴れの日は一人で過ごせる筈なんだ。見てろ」

 俺は屋上に繋がる扉を開け放とうして――しかし、その扉は施錠されているのか、びくともしない。


「あれ、おかしいな」

「授業、もう始まるよ? それなのにこんな場所まで連れ出して、一之瀬って馬鹿なの?」

「うるさいなあ。俺は馬鹿じゃない」

 サビが浮いたドアノブを何度も揺らしながら言い返す。

 自分なりに学校内を探し回り、ようやく見つけた場所がここだったのに――まさか、施錠されていたなんて。

 ちゃんと確かめなかったのも悪いけど、相変わらずの詰めの甘さにうんざりする。


「もういいわ、教室に戻らないと。ていうか、別に私ぼっちでいいんだけど。寧ろそっちの方が気楽だし」

 しかし、うんざりしているのは赤坂も同じのようだった。目もくれず踵を返す。

 暗い階段に赤いツーサイドがふわりと揺れ、


「待てよ。赤坂」

 俺は咄嗟に手を伸ばし、彼女の腕を掴んでいた。

 ブラウスの固い生地越しに伝わる感触は驚く程柔らかい。キツい言い方をしても、赤坂も華奢な女子なんだと思い知らされる。


「お前って中学じゃ部活でも勉強でもすごい奴だったんだろ? 皆とも仲良いし、生徒会長もやってたって聞いたぜ。それなのに……なんでだよ?」


「は? 何で中学の話を一之瀬が知ったように言っちゃってるわけ?」

 赤坂は俺を睨みつけた。自身の過去に俺が触れた事を責めるような怖い顔。


「お前と同じ鷹越中だった……渡瀬さんが言ってたんだよ」

「奏音(かのん)が? ていうか、何であんたがそんな事嗅ぎまわってるの。意味わかんない」

 赤坂は鬱陶しそうに髪を払う。


「どうしても知りたかったんだよ。赤坂が何でそんな風になっちゃったのかって」

 本当に人間が嫌いだから距離を置いているのだとしたら仕方がない。クラスで一人や二人、ソリが合わない人がいるのは当たり前だろうし。

 赤坂は俺のすぐお腹が痛くなる体質を見て、直さないといけないと強く言いきった。

 でも、赤坂だってそれは同じだ。

 大人になったら、そういう厄介な連中はもっと増えるのかもしれないのだ。

 でも、そんな説教じみた事、俺が言う資格なんて無いし。


   


「何か理由があってクラスの奴らを遠ざけているなら、赤坂が気兼ね無く過ごせて、落ち着いて飯も食える。そんな場所が学校にあればいいって思ったんだ」

「何でそんな事をあんたが気にするのよ?」

「事情が重なったとはいえ、結果的に俺はお前に助けられたから」

 怪訝そうな顔で腕を組む赤坂。俺は即座に言い返す。

 美祈さんは、『たまたま』という言葉を口にしていた。たまたま、あの人の家の近くにこの高校があって俺も合格できた。

 それで、『学校のトイレに行けない』っていうダサ過ぎる俺の悩みが赤坂にバレた。

 でも、赤坂は俺に協力してくれて、西崎や須山とも会話を交わすようになった。いろんなタイプの人間と関わるようになったんだ。

 以前の俺ならば、西崎や須山のようなタイプとは話そうとも思わなかった筈だ。

 そんな、考えられないような進歩を促してくれたのは、他でもない赤坂環季だった。

 もし、赤坂とこのような形で出会っていなければ。俺はどうなっていただろう。

 でも、人の出会いや、関わり合いになるきっかけなんて、そんな些細な偶然の繰り返しの結果なのかもしれない。


「だから、今度は俺が、赤坂の為に何かしてやりたい」

「言ってるでしょ。私はあんたが思ってる程、お人好しじゃないって。トイレの件だって同じよ。別に、親切心で一之瀬の体質改善の協力をしてるわけじゃないし」

 しかし、赤坂はじっとこちらを上目で睨みつけたまま、


「私は! 一之瀬との変な因縁もさっさと解決して……それで、また今まで通り一人でやっていければそれでいいの! 別にあんたの顔なんて見たくも無いし、変な噂を立てられるのはもっと嫌だし!」

 しゃくり上げるように喉を鳴らす。


「私は群れて仲良しごっことか、空気の読み合いみたいなゲームをしたくて学校に来てるんじゃない。私は一人でいいって言ってんの!」

 もう一度俺を睨みつけた赤坂は、頬を真っ赤に染めていた。


「――そういう、他の人に合わせらんない自分勝手な人間が私なの。わかんない?」

 俺がいくら彼女に寄り添おうと気を遣った言葉を投げかけても、多分、赤坂は動じない。 

 赤坂は中学では様々な人と交流してきて、俺なんかよりずっといろんな人間を知っていて、人生がどんなに綺麗事で片づけられないかも分かっているから。


「つまり、赤坂が俺を助けたのも自分勝手な理由だって? そう言いたいのか?」

「そうよ。私、嫌な奴なんだ……性根がねじくれてるの。ここまで話してたら分かるでしょ?」

 自嘲気味に笑う赤坂。そんな彼女を見ていたら、美祈さんの言葉が不意に浮かぶ。

 俺は今までずっと本音で接してきたと思ってた。

 でも……それは結局、いつも相手に差しさわりの無い言葉を選んでいただけで、そういう綺麗事を並べても赤坂には届かないんだ。


「だから、一之瀬が私を助けるなんて、そんな事しなくてもいいから――」

 赤坂は今度こそ教室に戻ろうとする。

 駄目だ。まだ行っちゃ。俺は何も言っていないのに。

 俺の心にある事全部、赤坂に言わなきゃ伝えきらなきゃいけないのに。

 今全部吐き出さなきゃ絶対に後悔する。そう思った。


「待てよ」

 気が付けば、俺は赤坂の二の腕を一気に手繰り寄せていた。汗ばんだ手のひらにくしゃくしゃになったブラウスと、その奥に感じる柔らかな腕の感触。

 もう一度ぎゅっと強く握る。


「それじゃ……それじゃあ、楽しくないんだよ」

「何よ……」 

 無言でこちらを見る赤坂の瞳。うっすらと涙を蓄えたそれは、いつになく弱気で、猜疑心に溢れている。

 自分の事を嫌な奴だって言っといて、何でお前が泣いてんだよ、おかしいだろ。

 言いようのない感情があふれ出す。


「一之瀬。私は――!」

 まだ何か言おうとするけど、知った事か。

 それなら俺も、好き勝手言ってやる。


「あーくそ! わっかんないかなぁ! 赤坂が泣いてんのとか、楽しくないとか、そんなのどうでもいいんだよ! 赤坂じゃなくて……俺が楽しくないんだ!」

 俺は力の限り叫んだ。


「はあ!?」

「別に、赤坂が一人だと落ち着くからとか、そういうのは関係ねえ。俺がお前ともっと仲良くしたい、それだけなんだって!」

 赤坂の攻撃的な睨みに怯みそうになる。

 それでも、退くわけにはいかない。俺は無い勇気をありったけかき集め、声を張り上げる。


「俺のクソくだらないトイレの悩みを赤坂が何とかしてやるって言ってくれた時さ。嬉しかったんだ。赤坂は馬鹿げてるって笑ったけど、それだけで終わんなかったじゃないか」

 多分、今の俺は赤坂に負けず劣らずの剣幕だ。


「今までは、誰かに打ち明けても笑われて終わりだったんだよ。寧ろ、ほじくり返されてネタにするような奴ばかりだったから、殆ど言えなかったし!」

 だから、ひたすらにトイレに行くことを拒んだ。

 秘密の『ひ』の字すらも露呈しない道を選び続けて来たのだ。


「聞いてくれた人も、大変だねって言うだけでさ。結局は他人事だったんだよ」

 本当ふざけんな。

 何物か分からない、もっと大きな存在。言うならば、世界そのものへの憤り。


「でも、赤坂は本気で解決しようとしてくれたじゃないか。整腸剤貰った時、俺本当に嬉しかったんだ!」

 だからこそ、今度は俺が力になりたかった。

 俺よりもずっと強い赤坂にも悩みがある、それを知って少しだけ安心したんだ。


「俺はずっと、味気なくてしょぼい昼飯を食うしかなかった。ちょっと美味い物を食べ過ぎただけで腹を壊すからな! でも、学食で赤坂と食った飯は本当に美味かったし……あれは、美味しいって気持ちを楽しむ為に腹に詰め込んだ、そういう飯だったんだよ!」

「そんな下らない事で――」

「お前なら分かるだろ! 俺は下らない事をいちいち気にするんだって!」

 結局のところ、赤坂を助けたいのは俺の我儘にすぎない。

 赤坂が苦痛を我慢しているように見える。強がっているように見える。ただそれだけ。

 彼女の心の中など分かりはしない。まして、俺みたいなコミュニケーションが下手くそな奴が分かるような代物なんだろうか。

 でも、俺は彼女に嫌われようが、ウザがられようが、もっと赤坂には楽しそうにしてほしいって思ってしまうのだ。

 その気持ちだけは真実彼女に直接言いたかった。


「なあ、赤坂。本音言えるような存在が、俺一人いるだけでも駄目なのかよ!? お前が一人ぼっちでしか飯を食えないのは分かる。でも、そこに俺がいちゃ駄目なのかよ! 俺も加えた二人ぼっちじゃいけないのかよ!?」

 赤坂は涙に濡れた頬を袖で拭って俺を凝視している。

 言いきった。初めて自分の腹の中のモヤモヤを声に出せた気がする。 

 美祈さんが言う通り、引かれようが嫌われようが少しでも本音をぶつけられたよな、多分。

 しばらく彼女の返答を待つのだが――それでもやっぱり、赤坂は何も答えてくれない。


「ああ、そうだよな……」

 ドン引きされるような事も結構言っていた気がするしな。盛大にやってしまった。

 俺は自分の気持ちを素直に言う事はできても、相手に伝える事は下手くそなんだっけ。


「分かったよ。キレながら友達なりたいとか言うなんて、支離滅裂だよな」

 諦めて赤坂に背中を向け――屋上へと繋がる扉と対峙。


「でも、せめて……お前が一人になれる場所だけは作らせてくれ」

 腹の底に息を込め、力を蓄える。

 そして、すっと目を開けた。

 扉には立ち入り禁止なんて書いているけど、何故屋上に出るのが駄目なのか俺は知らない。

 大人の事情とか、もしもの事があったら危ないからだとか、どうでも良い。

 今はただ、赤坂の為に何かしたいって気持ちだけ。

 きっと、自己満足だろう。でも、俺は赤坂が一人でも心から安らげる、そういう場所を作ってやりたいんだ。

 そして、そこはきっと四方一杯に青空が広がっていたら綺麗だと思う。

 俺は錆の浮いたドアノブを何度も揺さぶるが、やっぱり鉄の扉はビクともしない。

 ガタついて、今にも腐り落ちてしまいそうな代物なのに、俺の力じゃどうにもできない。


「もういいよ。一之瀬」

 背後で赤坂の投げやりな声がする。


「何で開かないんだよ」

「いや、鍵かかってるし。無理だって」

 赤坂はにべもなく言い放つ。


「くそが……」

 不意に、怒りが湧いて来た。

 まるで、目の前一杯に立ち塞ぐ暗い壁。

 それはまさしく――幼い頃に一人籠っていた暗いトイレから見ていた景色と重なる。

 外から好き勝手に振りまかれる不愉快な喧騒。人がトイレに入っている、ただそれだけで、からかいに来る、忌々しい無数の声。

 俺の心は、人生は、そんなふざけた物のせいでいつも引っかき回されてきたのだ。


「ふざけろよ、このドアが!」

 足で大きく溜めを作りドアを蹴りつけた。鈍い衝突音が馬鹿みたいに空しく響く。


「ちょ、一之瀬!? 何してんのよ!」

「くそ、くそ!」

 赤坂がまだ何か言っているけど知った事か。俺は踵を振り上げ何度でもドアを蹴り続ける。

 鉄の匂いが鼻腔に纏わりつく。学ランの詰襟が汗でベタついて気持ち悪い。

 思わずボタンを千切り捨てて襟元を開く。冷たい空気がすっと流れ込んでくる。

 ガン。もう一度扉を蹴り上げるけど、びくともしない。


「どいつもこいつも! ふざけんな!」

 それでも、止めない。開くまで何度も蹴りつける。

 もうこれはただの意地だ。

 赤坂にあれだけ本音をぶちまけた挙句、ドン引きされたのが恥ずかしかった。

 そういうのもあるのかもしれない。


「くそが――! このドアめ!」

 全てを忘れたくて、全てから逃げ出したくて蹴り続ける。それこそ全力全開の力で。

 惨めだけど蹴るのを止めたら人生に負ける気がしてきたのだ。


 いや、負ける以前の問題か。

 俺はいつも逃げてきた。きっと勝負の舞台に上がってすらいなかったのかもしれない。

 でも、こんな俺でも勝つ方法が見えてきたんだ。

 この先に、見たい世界がある。行きたい青空が広がっている。

 それなのに、行けない。


「なんで、なんでだ!?」

 足が痛い。膝が痛い。痺れる。片足ばかり使うからよろけそうになる。


「もういい。もういいよ! 一之瀬」

 ガツン、ガン。鉄を打ち付ける鈍い音が響き続ける。

 蹴りつけるポイントを鍵のある部分に集中する。それでもやっぱり扉は開かない。

 アクション映画と違って、上手くいかないもんだな。


「もうやめてよ。本当もういいんだって……何なのよ」

 赤坂がぎゅっと腰に手を回して止めようとしてくる。

 背中から何か柔らかい物が押し付けられて、やりにくいったらない。


「ごめん――ごめんってば。私も意地になってたって、分かったから!」

「嫌だ。絶対にやめるもんか」

 そもそも、謝るくらいなら素直に俺の言う事聞けよな。

 今の赤坂が本音で謝っていたとしても、もう俺は止められないんだ。

 何度も何度も、蹴る度に金属製の扉はせせら笑う。ぐわんぐわん鳴りやがる。


「いつもいつも、好き勝手言いやがって!」 

 トイレの外側から俺を冷やかした何者か。もしかしたら、そいつらを許容して俺を認めない。そんな世界か。

 もっと単純に、ただ弱かった自分自身か。

 分からない。何に怒っているのか分からないけど、ただ蹴る。


「私も意地になってたよ。もうそういうのこれからは止めるから!」

 赤坂が必死に叫んでいるのが聞こえる。

 背後の俺の悩みも、抱えた闇の正体も全て知っている少女。


「一之瀬の気持ちは十分分かったよ。だから――もう、こんな事しないでよおっ!」

「うるせえ……何でお前が謝るんだよ」

 俺を押さえつけていた腕が離れる。背後で息を呑む赤坂に、俺は続けた。


「赤坂が何か悪い事したのかよ。俺は赤坂がこんな風に泣く姿も、教室で窮屈そうに蹲っている姿も見たくないんだ」

 だから、今更退けるか。

 俺は彼女の為にここまで来たんだ。そして、この先に行こうとしてる。

 それなのに、この扉は開きそうにない。さあ、どうする?

 これまでの人生で何度となく現れた心の中の弱い自分。

 その弱音に、敢然と言い返す。


「決まってる」

 なら、俺は――今日こそ俺は。



「トイレのドアをぶち破れ!」 



 大きく溜めを作り、叫びながら全霊を込めた。リミッターを外した踵の一撃。

 クキリ。何かがへし折れた音がした。


「あっ」 

 熱くなっていた頭からさっと血の気が引いていく。

 まさか、足でも折れたか。

 急に痛みが増してきて、怖くなった俺はその場に崩れてしまう。


「ああ、一之瀬。このバカ。本当バカ! 何でそんな事すんの……」

 赤坂も俺の隣でぺたんと座り込んでしまっていた。

 荒い呼吸が聞こえる。身体が芯まで熱くなっていた。

 一体、何をしていたんだろうか。じんじんと麻痺したような足の痛み。

 暫くの間、俺はドアの前で呆然と座りこけ、


「え……?」

 しかし、そんな時間も長くは続かなかった。

 最初は目にまとわりつく鬱陶しさだけ。

 しかし、見上げた所でそれが眩しさだと気づく。

 光はそこから差し込んでいて、埃がダイヤモンドダストみたいに輝き舞っていた。

 ドアの隙間はゆっくりその間隔を広め、明るさもその勢いを増していく。 


「なんなのよ……一之瀬。本当引く」

 赤坂が、ふらりと立ち上がり、恐る恐るドアノブを押す。


「馬鹿じゃない?」

 ギイと音をさせて開いた扉の先に、薄い青が僅かに見えた。

 その光は、いつか誰かに連れられて見た、水平線から昇ってくる太陽みたいだった。


「馬鹿……本当に馬鹿」

 赤坂はふっと諦めたような笑みを作り、振り返る。


「ほら」

 差し伸べられるまっ白な手は、汗でぐっしょり濡れている。

 でも、俺はそれをしっかり握り返す。華奢な赤坂は俺の重みに負けじと踏ん張ってくれる。流石だ。


「……痛ぇな、くそ」 

 俺はそのまま、片足で跳ねながら屋上に出た。

 学校の四階よりも高い建物は数える程。そこに広がるのは地方都市のありふれた眺望だ。

 人工の建造物は遠くになるにつれて減り、空と陸の境界上に連なる山の尾根は雪を被っていた。

 白い濃い絵の具を思いきり塗りつけたような、くっきりした白。

 ひたすらに綺麗だ。この季節でも、まだあんなに残ってるんだなあ。


「綺麗だね」

 心で呟いたのと同じ言葉が、優しい声色が、頬を優しく撫でていく。

 そよ風に靡く赤坂の髪。鮮やかな洋紅色が熱を帯びて煌めいていた。


「ねえ。膝痛い?」

「そりゃな」

 我ながらテンション低い返しだ。さっきまでとは逆に、俺の方が仏頂面になっている。


「何で、こんな場所にいるんだろう」

 今更ながら口にするが、手すりにまで駆けていった赤坂には決して聞こえる事は無い。


 瞬間、突風が吹き荒れる。

 屋上に堆積した枯葉が舞い上がり、俺はたまらず顔を手で覆った。

 轟々と打ち付ける風は、ほのかに熱を帯びていて温かい。


「一之瀬って、本当に」

 翳した指の隙間。赤坂は白い歯を見せて笑っていた。


「本っ当、意味わかんない!」

 彼女は風鳴りに負けないように、身を一杯に乗り出して叫んだ。


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