第16話

 夜も更けて、既に時計は22時を回った。

 一通り洗い物を済ませたヤイバは、ちらりと縁側の方を見やる。

 月が珍しいらしく、見上げて晩酌をしていたイクスが眠りこけていた。どうも飲み過ぎみたいで、ムニャムニャとなにやら寝言がかわいらしい。

 ヤイバはそっと、その矮躯を月だまりの中から抱き上げる。


「ん、適度に重い……って言ったら怒られるよね。さてと」


 イクスには一応、客間を使ってもらうことになっている。

 布団もしいてあるから、運んで放り込むだけだと思った。

 長い耳までペチャンと垂れて、完全にイクスは酔いつぶれている。その寝顔はまるで、精緻に作られたビスクドールのように美しい。まさしく、ファンタジーの花一輪、これこそエルフといわんばかりの艶姿である。

 お酒の匂いに混じって、ほんのりと柑橘類のような瑞々しい香気が鼻腔を撫でた。

 そして、桜色の唇は小さく寝言を零す。


「ん……ツルギ、なんでじゃ……我が弟子、馬鹿弟子……どうして勝手に死ぬのじゃ」


 切なげに喘いでいるような、どこか泣いているような。

 ヤイバの腕の中で、イクスの頬に流星が尾を引く。

 そっと運んでいたつもりだが、廊下の暗がりでイクスは目を覚ました。ぼんやりとヤイバを見上げて、瞼を手で擦る。闇夜に輝く双眸は真紅で、まるで並んだルビーの結晶のようだった。

 しばらくほうけていたイクスは、ヤイバの腕の中にいることに気付いた。


「んあ……寝ておったかのう。少年、歩けるからよいぞ。おろしておくれ」

「いや、なんか危なっかしいから布団まで運びますよ」

「そうかや。なんか、すまんのう……フフフ、久々に楽しく酔えたぞよ」

「それはよかったです。僕も料理の作り甲斐がありました」


 お行が悪いなと思いつつ、客間の障子を脚で開ける。

 そして、畳の上の布団にそっとイクスを横たえた。

 が、それで解放される訳がなかった。


「着替えるからのう、少年。手伝っておくれ」

「……え?」

「まあ、着替えるっていうか、脱ぐだけじゃから」

「いや、ちょ、まっ!」


 突然、イクスが脱ぎ出した。

 そして、部屋着用のオーバーサイズのTシャツが上手く脱げず、もがいてジタバタと布団の上を転げ回る。

 やれやれとため息をつきつつ、ヤイバは頬の上気する熱を感じていた。

 しょうがなく、Tシャツを上に引っ張り脱がしてやる。

 バルン! と二房の実りが揺れてまろびでる。

 イクスはそのまま、ブラのホックも外そうと背に手を回す。

 だが、酔っ払って上手く外せないようだ。


「あっ、あっち向いてください、イクスさん! 見えそうです、ってか、見えちゃってます!」

「んあー、外れん。こうなったら鍵解除の魔法を」

「いえ、いいですから! 僕が外しますから魔法はいいです!」


 ブラのホックというのは、どういう訳か外すのがことのほか難しいものだ。

 ただ、ヤイバは今日みたいな経験を年に数度は体験するので、割と手慣れている。母親のミラも、泥酔からの寝室お運びコースで脱がせることがたまにある。

 母親にはなにも感じないが、肩越しに振り返るイクスに思わず赤面してしまう。

 ちょっと手が震えた。

 触れる素肌は淡雪のようで、背中がとてもすべすべである。

 ヤイバはこころの中で(おばあちゃんの介護、おばあちゃんの介護)と、思春期を封印する魔法を唱える。しかし、そんな呪文も目の前の光景を前にしては無力だった。

 それでもなんとかブラを外してやる。

 その頃には下も脱いで、あられもない格好でイクスは夢の中だった。


「か、風邪ひきますから……春先はまだ夜も冷えるし」


 ヤイバは極力直視を避けつつ、全裸のイクスを布団の中に入れる。

 もうすぐ寿命で老衰死するとはいえ、三千歳でもハイエルフの裸体は刺激的に過ぎた。

 一通り終わって、気付けばヤイバは変な汗をかいていた。

 緊張したし、自制心も総動員した。

 どっと疲れたが、それでもう片方の寝室も気になった。


「母さんはちゃんと寝てるかな……また、仕事用のデスクで値落ちしてたりして」


 そっと静かに足音を殺して、次は母の私室へ向かう。

 そして、案の定心配した通りの状況にヤイバは再びため息が出た。

 栄養ドリンクを片手に、母のミラがいびきをかいている。彼女はパジャマに着替え終えていたが、ノートパソコンの前に突っ伏して寝ていた。

 先ほどまでリモート会議中だったようだが、既にタイムアウトでアプリは終了している。

 画面には今、無数の資料がウィンドウを並べていた。

 母の仕事は、確か環境問題に関する外資系企業の技術者だ。

 あまり見ていいものでもないが、ついついミラを抱き起こす時に視界に映る。


「ん? 極秘だって……あーもぉ、母さんてば。家だからってだらけすぎだよ。ちゃんとこういうファイルは閉じてもらわないと――」


 しょうがないので、そのままノートパソコンを閉じる。

 つもりだったが、ふとその手が止まった。

 無数に乱舞する書類の中から、いくつかの単語が瞬時に網膜へと突き刺さる。


 ――地球再生計画。


 ――月面移住。


 ――Earth・LifeForce。


 そして、星の泉。


 点と点でしかない単語の数々に、何故かヤイバは身震いを感じた。

 まるで、陰謀論者にエビデンスを叩きつけられたような薄ら寒さだった。

 ただ、意味もなく戦慄してしまって、すぐにノートパソコンを閉じた。

 スリープモードにしておけば、とりあえずは母の仕事の邪魔にはならないだろう。

 ただ、ミラをベッドへと運ぶ間も、さっきのことが頭から離れない。


「そ、そりゃ、地球環境はかなり悪いって話もあるけど……あれ?」


 熟睡を通り越して爆睡のミラは、大人しくベッドの中で丸くなった。

 それを確認して、再度ノートパソコンに振り返る。

 だが、開けてはいけない。

 見てはいけないと思った。

 見るのが怖かったとも言える。

 ただ、母が大きな事業に関わっていることだけは知っていた。シングルマザーになっても十分に食べていける、突然イクスが来てもある程度はカードでなんでも買える暮らし。

 勿論ヤイバだって、小さな頃からひもじい思いはしたことがなかった。

 父が貧乏な町医者として採算度外視で人々を助ける一報、母はキャリアウーマンだったのだ。


「えっと、つまり……地球の環境がなおるまで、人類は月に避難するって話? かな?」


 ひとりごちて自室へ向かう。

 ざっくりそういう話なんだと、無理に納得してそれ以上考えないようにした。

 だが、やはりどうしても気になる。

 星の泉という言葉は、イクスも使っていた。

 彼女は……エルフたちは死ぬと、星の泉とやらに還るらしい。

 そう、エルフ……ELFだ。

 それがまさか、地球の生命力を指す単語の略称だとしたら……?

 だとしたら、イクスたちの暮らしていた異世界というのは、もしかして――


「ま、まさかね。それより今は、キルライン伯爵たちだ。なんとかしないと」


 そんなはずはないと心に結んで、眼の前の問題だけを声に出してみる。

 だが、部屋に戻ってベッドに入っても、ヤイバの疑念は膨らむばかり。

 ただ、そういえばと思い出す。


「でも、イクスさんたちの異世界には月がないんだっけ。じゃ、じゃあ、僕たちの地球とは全く違う天体ってことになる。……よなあ」


 そう、月見酒に酔うイクスの笑顔を思い出す。

 あっちの世界には月がない。

 そして、こっちとは年月の流れが十倍違うのだ。

 異世界は異世界で、現実は現実だ。

 もはや行き来する手段もイクス自身が封印したため、干渉し合うことはない筈だった。

 だが、なかなか睡魔は訪れてくれない。

 妙にそわそわと落ち着かなくて、何度目かの寝返りを打った時だった。


「うう、かわやはどこじゃろ……少年ー! ミラー! ……寝ておるかのう、やっぱ」


 慌てて部屋を出ると、廊下を全裸のハイエルフが徘徊していた。

 ヤイバに気付いたイクスは、振り返るなりゆるい笑顔を浮かべる。


「おう少年、すまんのう。起こしてしまったかや? ちと、おしっこが――」

「い、言わなくていいです! そっちの角を奥へ」

「……角、を、奥、へ……ん、ムニャムニャ、わかったぞよ」

「わかってないじゃないですか! こっちこないでください、あっちです!」


 埒が明かないので、しょうがなくヤイバはイクスの手を取る。

 酔っ払って千鳥足のイクスは、ヤイバにしだれかかるように歩いた。

 それでますます早足になってしまい、最後にはトイレのドアを開けるなりイクスを放り込んで素早く閉める。

 視界から誘惑の権化が消えて、その場にヤイバはへたり込んだ。


「ふいー、漏らすとこじゃったあ」

「……じゃ、じゃあ僕は戻るんで!」


 水音に混じって、眠たげな声が聴こえる。

 それだけでもう、ヤイバは脳味噌が沸騰しそうだった。

 そんなアクシデントもあって、先程のもやもやとした疑念はあっさり忘れ去られてゆくのだった。因みにやはりというか、トイレの中でイクスは寝落ちしてしまう。

 これは介護、これは介護と呪文を脳裏に唱えながら、ヤイバが拭いて寝室に連れ出すのだった。

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