お疲れ様配信、あの日の耳ぜめ③

 ミサキの声が右耳の本当に近くまで接近する。ちゅるちゅるという音がイヤホンから鳴った。耳かきのガリガリ音とも違う、透き通るような音にまた体がゾクリと反応する。


『まずはーお耳のまわりからー』


 ちゅるちゅるちゅる、と耳元で音が反響する。自分の耳介のあたりを、何かが這うような感覚。


『ここも舐めるよー』


 ミサキが言葉にすることで、耳介を這うその感覚が舌を這わせられているからだと脳が認識する。そしてその頃には、また体中を駆け巡るゾクゾクとした電気信号が繰り返し発せられた。

 耳元を舐められる感覚。美咲にけしかけられた古宮さんが、俺のことを初めて自宅に呼んだ時のことを思い出した。

 あの時、古宮さんは俺を押し倒して、耳介から耳の奥までを古宮さんが舐めた。その時、耳を刺激されて初めて、ゾクリとした感覚が頭のてっぺんから爪先まで流れる体験をした。

 その再現が、耳元に流れるそれだけでは無機質なシュルシュル音とミサキの言葉で成される。


『奥までいっちゃおっか。あー』


 しゅるしゅるしゅる、ちゅる。

 耳かき音の時と同じ、音が深みを増し、舌が耳奥まで突いてくる感覚を覚える。そしてやはりその尖ったような感覚にも、古宮さんの時の体験がブーストをかけていた。

 時折、ミサキの吐息もそこに混ざり、そこに彼女がいる実在性を強く感じさせる。


『んべー。反対もー』


 ミサキの声が右耳から離れ、また左耳の方へ。移動する時には必ず声を出して、その声でも刺激を与えようとしているのがわかる。

 そうすることで、時間をかけて慣れたはずの刺激でも、また新鮮に感じることができるようになる。

 咀嚼音ASMRなら、食べているものをカメラに近づけたりしてその音が聞こえる方向を変えたり、食べるものを変えて刺激を変えるのにも似ている。


『気持ちいいよねー。ふふ、わかる。んー』


 左耳の耳介から奥まで。また舌が耳元から奥まで這うような感覚。

 そしてその深みが増すたびに、口を大きく開ける音もわざとらしいくらいに何度も何度も繰り返し立てる。その刺激にまんまと俺もビクリと反応してしまう。

 ダメだな、これ。こういうASMR配信は初めて聴いたけど、癖になる。

 茉莉綾さんのすずかとしてのパフォーマンスを初めて観た時も同じことを感じたのを思い出した。こういうものを扇情的、下世話なものだと掃いて捨てることはできるかもしれないが、確かにミサキの配信にも、これを聴いた人が何倍にも良さを感じることができるようにする為の配慮があると思った。


『はーい、今日はこんなとこかなー』


 しゅるん、と左耳から音が遠くに離れて、ミサキが囁いた。

 コメント欄にも「良かったー」「幸せ」「最高」と賛辞の声が並んだ。


『ふぅー』


 それからダメ押しにまた吐息をかける。実際にはそこにいないのだからそうなる筈はないが、耳を舐められて温まったところを冷ますような、そういう感覚がある。


『いやー、今日は本当にお疲れ様ー』


 そしてその声も右から左へ移動する。隙を作らせてもらえないのは、こいつの意地の悪さが出てるよな、なんてことも感じつつ。


『え? まだ声が気持ちいい? ごめんごめん。マイク変えるねー』


 ゴソゴソという音がしてから、耳に訴えかけてくるような囁き声と吐息がやむ。


『これで本当におしまい。お疲れ様ー! あたしもねー、ライブ大変だったけど、君のこと見れて疲れが取れたよ』


 そんなことを言って、コメントの幾つかを拾い読みしていく。


『ライブ格好良かった? マジ? やったー!』

『今度はもっと過激なの? やめろし。配信できなくなっちゃうよ!』

『あ、物販来てくれた人だ! 終わってこっちもすぐ見てくれるの嬉しいなー』


 俺はそんな風にミサキがファンとやり取りをしている様子を見ながら、本当にこいつは地下アイドルやってんだな、という気持ちを新たにする。こいつの顔をライブ会場で見た時は、息が切れそうなくらいに動悸がしたけれど、元気でやっているようならホッとする。


 俺がミサキと会えなくなってから、彼女はどんな風に生きてきたのだろう。

 俺は早々に、ミサキと会うことを諦めてしまったけれど、ミサキの方はどうだったんだろう。


『それじゃあ、またねー!』


 今度こそ、画面の中の桔梗エリカはファンへの最後の挨拶をして、3DCGアバターが消える。画面は待機画面に戻り「良かったー」「またライブ行くわ」「エリカしか勝たん」などの、余韻を楽しむファンのコメントが流れていく。

 俺もしっかり配信が終わっているのを確認して、イヤホンを外す。それから両腕と背筋を伸ばして、ホッと一息ついた。


 ガラガラガラ、と引き戸の開く音にまで少しだけビクッとしたのは多分驚いたからだけではない。


「お疲れ様ー!」


 ミサキが疲れたような、それでもニコニコと笑った顔で寝室に入ってくる。ミサキはそのまま小さく駆けるようにベッドに近づき、「えいや」と少しだけ勢いをつけて俺の隣に座った。


「どうだった?」


 俺にそう尋ねるミサキの顔は、楽しそうにも不安そうにも見える。

 俺は一瞬だけ当たり障りのない感想で流そうとしたが、見学店でのキャストの写真撮影での学びと片桐さんの言葉を思い出した。

 自身の気持ちを誤魔化すことで良いことは何もない。


「すごい良かったよ。めちゃくちゃビクビクしちゃったし」

「うおおー、マジかー!?」


 ミサキは布団に置いてある枕を掴んで抱きしめると、ぽすんと頭からベッドに倒れた。


「それユウくんに言われるの、はっず!」

「でもホント良かったって」


 そもそも見学店でのことがなくたって、こいつのこういう反応が俺は好きだったし、そうじゃない時の不機嫌そうな顔に狼狽えてしまうから、俺は誰かの良いところに対して、自分の気持ちにはあまり嘘をつかないように意識するようになったのだ。


「ASMRの配信も、耳かき音も初めて聴いたけど、本当に近くでされてるみたいだった」

「ほんとー? 嬉しいなーそれは。あたしも結構色々工夫してるからさ。最初の配信とかもうボロボロでさ! 雑音だらけでコメントも罵詈雑言の嵐よ」

「そっから頑張ったんだろ。俺も最初の写真撮影は緊張したし」

「あ、それか! ユウくんがなんか小賢しいこと言うの! スケコマシだ!」


 美咲も似たようなこと言ってたけど違うわ。いや、違わんが。


「えっちなカメラマンさんは言うことが違うなあ」

「そういうんじゃねえから」


 よいしょ、とミサキは体を回転させて、寝転んだ状態のまま俺の方を見る。


「昔はもっと可愛かったのに」

「それを言うならミサキもすごい堂々としてるじゃん。結構人の顔色伺う方だったのに」

「それは今でもそうだよ」


 ミサキが深く溜め息をついた。色々と苦労したらしい。それはそうか。配信者として活動するのも、地下アイドルとしてファンを相手にするのも、どちらも今の俺が想像できないような色々なことがあった筈だ。


「頑張ったんだな」

「そうだよ? 褒めて?」

「ミサキは偉いな」


 それに比べて俺はどうかな。就活を始めなくちゃいけないのに、そんなことから目を背けて毎日のように美咲のいる部室でだらだらと小説を書いたり、地下アイドルのライブなんか来たり。いや、それに関しては野々村先輩の方がヤバいんだけど。

 そんなことを考える俺の顔を、ミサキがじっと見る。


「何考えてるの?」

「いや、俺も頑張んないとなって」

「えー? もっとえろい写真撮りたいってこと?」

「違うわ。今んとこバイトだから、それは」


 と、俺はベッド脇の小机に置いてあるデジタル時計を見る。気付けばもう十一時を過ぎている。流石にそろそろ電車がない。このアパート最寄りはあまり人通りのない駅だったしタクシーを拾うのも無理そうだから、最悪呼ぶしかないかもしれないけれど、出費がキツいな。

 このままミサキと別れるのは惜しいが、連絡先はわかったし、また電話することだってできる。ミサキがどれくらい多忙なのかわからないけれど、その合間を縫って連絡しても、こいつは応えてくれるだろう。


「今日はミサキと会えて良かった」

「あたしもユウくんと会えて良かった」


 ミサキがベッドに横になりながら、嬉しそうに笑った。

 俺は布団におろした腰を持ち上げようとする。


「待って」


 けれど、そんな俺の腕をミサキが掴んで止めた。そのまま力強く俺を引っ張って、もう一度ベッドの縁に座らせる。それから俺の腕を支えにして、自分の上体も起こした。


「どこ行くの?」

「そろそろ帰らないと」

「え、やだ」


 やだって──。


「帰ってほしくない」

「でも──」


 俺はまた時計を見る。

 ──今すぐ帰らなくたって一晩ここにいるくらいなら良いかもしれない。古宮さんとラブホで一夜を過ごしたことに比べればわけない。

 俺も、せっかく再会したミサキとこれで終わりというのが嫌なのは同意だ。


「わかったよ」

「ホントに?」

「タクシー捕まえるのも金かかるし」

「よかった。まあタクシー代くらいはあたし出すけどね」

「それはちょっと悪いよ」


 ミサキはホッと胸を撫で下ろした後、また俺の顔をじっと見る。


「どうしたの」

「いやね、ちょっと気になって」

「何が?」


 ミサキは下唇を噛んで少しだけ不機嫌そうな顔をする。


「さっき、あたしの配信のこと、本当にされてるみたいって言ったじゃん?」

「言った言った」

「あたしは耳かきはしてあげたことあるけど」

「あれめっちゃ痛かったからな」


 俺がそう言うと、ミサキはグーで俺の肩を殴った。痛い。


「せっかくしてあげたのに!」

「ミサキがしたかったんでしょうが」

「それはそう」


 ミサキは呆れたように鼻息を吐いて、改めてこちらを見る。


「そうじゃなくてさ。諸説あるけど、ASMRって経験してる音の方が感度高くなるみたいな話もあるんだって」

「それは俺も聞いたことある」

「ね? 有名な話だし。だからさ、耳舐めとかは割と気持ち悪いだけの人もいて。だから、ユウくん大丈夫かなーと思ったんだけど、楽しんでもらえてよかった」

「なるほど?」

「でも、さ」


 ミサキは両手を俺と彼女の間に置く。元々近かった彼女の顔が、より接近する。


「それって、ユウくんは耳舐められたことあるってこと?」

「あー……」


 俺はまた古宮さんを思い出した。不可抗力みたいなものではあるのだけれど、その質問に対する答えはイエスなので反応に困る。


「つまり、あたしの配信聴きながら、そのこと思い出したりしてたんだよね?」


 図星だ。耳かきの時までは、ミサキとの記憶を思い出していたのだけれど──。

 そんな俺に対してミサキは


「それはなんか、嫌だな」


 ──と。ベッドに置いたミサキの両手がふわりと浮く。違う。そのまま両手が俺の頭を掴む。その手でミサキは、俺の顔をくいっと回転させて、正面を向かせた。


 ちゅるり、と音がした。

 耳介を這うその感覚が、俺の体をゾクリと震わせる。


「でももう、これであたしの」


 ちゅるり、ともう一度俺の耳を彼女の舌が這う。流石にもう、何が起こっているかはわかっている。


「ミサキ──」

「静かに」


 じゅるじゅると、わざとらしく音を立ててミサキは俺の耳に舌を這わせる。分かっていても、ゾクリとした感覚に俺は体を震わせてしまい、それを見てかミサキが笑った。


「ねえ?」


 ミサキは今度は両手で俺の頬を挟み、また自分の方へ向き直させる。

 ミサキの表情は、目元が今にも泣きそうな、それでいて口元は笑っている複雑なものになっていて。

 ──そんなミサキの表情に、俺はまた心臓を高鳴らせてしまう。


「そしたらさ? もしかして、こっちも?」


 右頬から手を離して、人差し指を俺の唇に当てた。

 俺はまたしても否応なく、古宮さんとのことを思い出してしまう。古宮さんの舌先が、俺の舌先に絡みついた時、息ができない苦しみと同時に、口の中を何かが蕩けるような感覚に襲われた、あの感覚。その感覚を俺はまだ忘れてはいない。


「……」


 だから俺は何も答えられなかった。

 そんな俺の様子を見て、ミサキは笑みをこぼした。


「変わらないなあ。隠し事が下手なところ」


 そう言って、ミサキはまた俺の両頬を手で挟み──。


 その唇を、俺のものと重ね合わせた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る