お疲れ様配信、あの日の耳ぜめ②

『どう? びくってした?』


 ミサキの意地悪そうに笑う声が右耳に集中して聞こえる。その間も常にゾクゾクとする感覚が耳元から全身に伝う。食べ物の咀嚼音やスライム、焚き火などの有名どころは流石に聞いたことがあるけれど、こうして実際に耳元で囁かれている音声というのもかなり快感を与えてくるものだ。

 俺はベッドから起き上がり、改めてパソコン画面を見た。

 コメント欄を「助かる」「これだよこれ」「えっっっ!」などのコメントが怒涛のように流れる。


『じゃあお次は左ー、いややっぱり右かなー?』


 ミサキの声が、左へ右へと移動する。本当に後ろにいるみたいだ。


『もっかい右ー』


 ふー、とまた耳に息を吹きかける音。風による音割れの雑音は入るけれど、それすらも耳を刺激する。

 俺が学校で眠くて机に突っ伏していた時に耳に息吹きかけるの好きだったよなこいつ、などとそんな記憶もよみがえってきた。


『じゃあ今度こそ左ねー』


 言いながら、ミサキの声が移動した。俺は俺で、こうした方がより聞いていて心地よさを感じるという計算なのだろうな、なんて無理矢理に冷静に分析をしたりしてみる。


『ふうー』


 今度は左耳に吐息。

 さっきと同じことをしているだけなのに思わずビクンと体が反応する。ASMR音声に反応しやすいかどうかには個人差があると聞いたことがあるけれど、俺はどうやら反応しやすいタイプの方らしかった。


『どうかなー? 癒されましたかー?』


 ミサキが囁くように左耳で問い掛ける。その声すらも体にゾクリとした感覚を引き起こす。


 コメント欄にも「ぞくぞくする」「エリカのASMRが一番」「癒される」などの回答が流れていく。


『みんなが癒されるとあたしも嬉しいなー。じゃあもう一回。ふうー』


 吐息がまた耳に吹きかかる。もう耳元の感覚が麻痺してるのではないかと思うほどの快感があった。

 ミサキは右へ左へと動いてまた息を吹きかける、という動作をもう一往復してリスナーを湧かせた。


『今日は来てくれてありがとう。大好きだよー。好き好きー』


 左耳への息の吹きかけを終えて、今度はそんな風に甘い声で囁きかける。

 パソコン画面も「俺も俺も」「好きー」「もっとやって」とリスナーの反応も上々である。

 なるほど、桔梗エリカはいつもこうして配信をしているのか、と感心する。


『今日はいっぱいあたしを見てくれてありがとう。好きー。いっぱい応援してくれてありがとう。大好きー』


 ミサキのそれが、自分だけに向けられた言葉ではないことがわかっていても、その言葉に俺はドキドキした。

 この間見た夢のことを思い出す。古宮さんの家でのAV鑑賞会が終わって、その記憶がまだ鮮明だったせいで見たのであろう夢。夢の中で、俺はミサキとセックスをした。あの夢を見た時は、ミサキとはもう会うことはないんだろうと思っていたけれど、今はたった壁一枚、引き戸を開ければそこにミサキがいる。

 夢の中でミサキが俺に言う「好き」の言葉を、あの頃には聞くことができなかったけれど、今はこんなところで聞いている。


『じゃあ今度はねー、耳かき。ふふ、お耳だーして』


 続けてミサキは耳元で囁く。右耳にゴソゴソという音が響いて、その音が段々と耳奥に移動する感覚。実際にはただイヤホンをつけているだけなのに、本当に耳かきの棒が耳に入ってくるような錯覚がある。


『ふふ、カリカリー。いっぱい取るよー』

 笑みのこぼれるミサキの声。多分、こいつ本当にすごく楽しんでやってるんだろうことを俺は知っている。

 ミサキは人の耳かきをするのが好きだった。友達が遊びにくる時は、耳かきをさせてと迫ってうんざりさせているのだと、俺とミサキの共通の友達も言っていたのを思い出す。その友達は女子だったけれど、勉強会か何かで俺がミサキの家に行った時にも「ねえ、耳かきさせてよ」とミサキは俺に言ったのだった。

 当然、女子にそんなことを言われるのが初めての俺は困惑し、あたふたしたけれど、結局はこいつの圧に負けてミサキの膝に頭を乗せて、耳かきをしてもらった。正直なところ、その時は気持ちよくもなんともなかった。俺の耳の中を見て「耳くそいっぱいだー!」などと下品に喜ぶのは良いが、ミサキときたら耳垢をゴリゴリと削るように耳を掻いていくものだから痛みに耐えてちょっと涙を流したくらいである。


『カリカリー。気持ちいい?』


 こうして音声を聞いている分には、実際に耳に棒を突っ込まれて掻き回されることなどないわけで、さっきの吐息と同じように自分に都合の良いように聴くことができる。俺は引き戸の方を一度ちらっと見て、耳かき音の流れる方を上にしてベッドに横になった。あの時の痛みのことを考えたら、このくらいはしていいだろ。

 しかしダミーヘッドでの耳かきは、当然ミサキが望むような耳垢を得ることはできない。そのことを、もしかしたらもどかしく思っていたりするのだろうか。そう考えると、少しだけヒヤッとした感覚があるが。


『ふーっ』


 今度は少しだけ強めの吐息がかかる。ゴソゴソと音がして、ミサキがマイクから少しだけ離れたのがわかった。


『じゃあ今度はんたーい』


 ミサキの言葉に、俺は素直に体を回転させる。ベッドに横になっても良いよ、と言われた時に「使わねえよ」とか言っちゃったけどガッツリ寝転んでんな、俺。耳かきしてもいいかとミサキに初めて言われてあたふたした時に比べて、ずいぶんと図太くなったものだ。大体古宮さんのせいな気がする。


『はーい、カリカリするねー。もうちょっと奥の方でも大丈夫かな?』


 ただ、そんな風にミサキの配信を聞いていて、俺は段々と音声を聴くことに気を向けられなくなっていた。反対側の耳かき音が始まってすぐくらいで、俺に尿意が襲ってきていた為だ。さて、どうしたものか。

 ミサキを公園で待つ間に、コンビニで買ったお茶をペットボトル一本分飲んで、それからトイレに行ってないせいだ。ミサキを待つことに対してあまりに緊張していたので、お茶を飲む手が止まらなかったのだ。


『どう? 気持ちいい? 気持ちいいでしょ』


 このまま我慢しても構わないが、そうすると配信に集中できない。配信を聞かないでいる手もあるが、そうするとミサキはあまり良い顔はしないだろう。俺の頭の中に、露骨にぶーたれるミサキの顔が浮かんで、吹き出しそうになるのを耐えた。

 耳掻き音が続く。俺はベッドに座り直し、相変わらずパソコン画面のコメント欄を見て少し申し訳なさを感じつつも、ミサキにメッセージを送った。


『トイレやっぱり行く』

『大? 小?』


 ミサキが事前に言っていた通り、俺がトイレに行きたい旨をメッセージで送るなり、返信は秒で返ってきた。


『小』

『おっけー』


 ミサキのメッセージが送られてくるのとほぼ同時に、耳元で響く耳掻き音がやむ。


『ふうー』


 耳掻き音がやむ代わりに、吐息の音が耳元を襲った。トイレのことで頭がいっぱいになっていたせいであまり気にならなくなっていたはずなのに、その音でまたゾクゾクとした感覚が体を這う。

 ヤバいヤバい、気張らないと漏らす。


『どう? お耳綺麗になったかなー? じゃあお次はねー、とその前にあたしトイレー。ライブから帰ってきてすぐ配信開いたからちょっともう我慢できんわ。みんなもトイレ休憩いっといれー』


 ミサキがそう言うと、パソコンの配信画面から3DCGアバターがスライドして画面外に消える。そして待機中の時に流れていたヒーリング音楽がまたかかり出した。


 ガーっという音と共に引き戸が開いて、ミサキが俺の方を見て、にこりと笑う。

 俺は両耳からイヤホンを外して、ノートパソコンの上に置いた。


「あはは、ごめん。配信前に行かせるべきだった」

「思った」

「行ってきなよ。玄関から入ってすぐ右の扉ね」

「サンキュ」

「ファンが待ってんのにアイドルの時間独り占めしてるんだから早くねー」

「わかってるよ」


 音声は切ってるんだろうけれも、俺は何となく静かに寝室を出て、トイレに向かった。

 俺のアパートのものよりもちょっとだけ広めのトイレの中にはしっかり消臭剤が置かれていて、フローラルな香りが鼻をついた。壁の棚には造花も飾っている。

 俺はズボンと下着を脱ぐ。綺麗にしている便座カバーの上にそのまま腰をおろすのを一瞬だけ躊躇したが、尿意には勝てず、すぐに便座に座った。

 我慢していた尿が体外に解放される。

 俺はホッと一息つき、胸を撫で下ろした。おしっこできたのは良いが、心臓はバクつき続けている。何が図太くなっただ調子乗りやがって。


 我慢していた分、いつもより多めに出た尿を水で流し、しっかりと手を洗ってから、俺は寝室に戻った。


「おかえりー」


 ミサキがベッドの上にぐでっと寝転びながら俺を迎えた。


「ありがとう。助かった」

「そのまま漏らしたら笑えたのに」

「笑えるかバカ」


 俺はパソコンの上に置いたイヤホンを拾う。


「ほら、ミサキも早く戻んなよ」

「えー、あたしはもうちょっとユウくんと話したいけどなー」

「はいはい」


 俺はミサキの寝転ぶ隣にどすりと座り、イヤホンを両耳につけた。

 ミサキはそんな俺を見て、少しだけ不機嫌そうな顔をする。その顔が、ついさっき想像したぶーたれ顔と一緒で、俺は笑いを堪えた。


「むう、可愛くなくなっちゃったなあ」

「ほっとけ」

「ユウくん、えろい写真撮りすぎて汚れちゃった」

「いいから行けって」

「はーい」


 ミサキはベッドから起き上がり、再び俺に手を振ってから、寝室の引き戸を閉じて配信部屋に戻った。

 しばらくして、イヤホンから流れるヒーリング音楽もやむ。


『ただいまー。みんな休憩できたー? まだまだ続くからねー』


 そして無事、耳元にミサキの囁き声が聞こえてきて、俺はまたその声に体を震わせた。


『お耳も綺麗になったしー。次はねー。こうやって──んあ』


 ミサキが大きく口を開けるような声が耳元に届いたかと思うと、次にシュルルっという音が鳴る。何が起こったのか一瞬わからず、俺は耳に手を当てたが、当然そこには何もない。


『耳舐め、始めるよ』

 

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