気兼ねなしに、ある日の酒場
「それでライブにですか、先輩さん売れっ子ですね」
見学店でのバイトの帰り道、俺はまた茉莉綾さんと一緒になり、今度地下アイドルのライブに誘われたことを伝えた。
茉莉綾さんは、閉店まで出勤していることが多いので、片桐さんに呼ばれて店に来た帰りに待っていてくれる。茉莉綾さんとしても一人で帰るより安心というのもあるのだろう。
茉莉綾さんも店では古参の一人であり、その信頼の傘を俺も享受させてもらっている節がある。たとえば、茉莉綾さんが俺のことを「先輩さん」と呼ぶので、店のキャストの間でも
すっかりその呼び名が定着してしまった。
「冷静に考えたらよくわかんない呼び名だよ、先輩さん」
「そうですか?」
「うん。美咲はもう店を辞めたし、俺も従業員って意味なら、茉莉綾さんの方が俺の先輩って言ってもいいし」
「私はもうこの呼び名で慣れ親しんじゃいましたからねえ」
それはもう仕方ないか。他のキャストの手前、茉莉綾が急に俺のことを本名や別の渾名で呼び始めるのも、あまり得策とは言えない。
「ああでも、先輩さんに茉莉綾先輩って呼ばれるのはありかもですね。敬語で喋ってください」
「それはおかしいですよ、茉莉綾先輩」
「あ、良いですね。それでいこう、後輩くん」
「後輩くんになっちゃった。ややこしいややこしい」
「あはは、美咲ちゃんに怒られちゃう」
そんな他愛のないやり取りをしながら、話題はまた地下アイドルの件に移る。
「地下アイドルかあ。私も行けたら行きたかったんですけどね」
「それは仕事の参考的な意味で?」
「それもあるけど、多分ダンスとかするでしょ」
「そっか、茉莉綾さんダンス好きだもんね」
アイドルとしてのダンスとかを見てみたいってことか。お店でも待機中にダンス動画を見て、思わずリズムに乗ったりするくらいだ。
「その日は私も用事ありますからねえ」
「この間、俺が野々村先輩に急に誘われた時もそうだけど、あらかじめわかってないと予定は立てにくいのは仕方ない」
それはそれとして、ちょっとだけ気になったことがある。
「茉莉綾さん、ちょいちょい敬語外れるよね」
「え? あ! すみません!?」
茉莉綾さんが驚いたように口元に手を当てた。
俺はその姿を見て、思わず小さく笑ってしまった。
「いや、逆。敬語じゃなくて良いよ。楽な方ならどっちでも」
「そ、そう言われると意識しちゃいますね」
「まあ徐々にで」
「そうですね。わかった。──あ、ここです」
茉莉綾さんが、到着した店の看板を指差した。駅から少し離れた場所にあるバー。茉莉綾さんが入ったことはないが内装が好きそうで気になったというので、二人で軽く飲みに行くことにしたのだった。
中はシックな雰囲気で、静かな曲調のボサノヴァが流れている。入り口に入ってすぐ右側にカウンター席があり、後ろには何本もお酒が並んでいる。店は細長く伸びていて店の左側、壁際の方にテーブル席が並んでいた。カウンターには小さな鉢に植わったサボテンが置かれているのが印象的だ。
客の入りはそこそこ。空いているテーブル席ならどこでも大丈夫と、カウンターにいるマスターに言われたので、俺と茉莉綾さんは入り口近くのテーブル席に座った。少しだけ高い。俺でもギリギリ床に足が届くくらいだ。
「おすすめあります?」
茉莉綾さんがテーブルに注文を取りに来た店員に質問する。
「でしたら、カイピリーニャを」
「いいですね! カイピリーニャ好きです。それで」
「じゃあ俺もカイピリーニャひとつ」
「かしこまりました」
店員は丁寧な対応でカウンター席まで戻って行く。すぐにお通しとしてトルティーヤチップが運ばれてきたので、俺は手を伸ばして一口食べた。
「良い雰囲気ですね」
「だね」
「先輩さん、ありがとう」
茉莉綾さんがテーブル席に頬杖をついて、小さく笑う。
「お店の新規開拓を気軽に付き合ってくれる友達ってお店にはあんまりいないんですよねえ」
周りの客も一人の客はいないし、多分ここも基本的にはおひとり様は遠慮しているタイプの店っぽい。
「茉莉綾さん、結構慕われてるっぽいから誘えば来ると思うけど」
「その辺は人によるかなあ。あんまり外で絡みたくないって人も少なくないんだよね。あ、かなこちゃんとは休日よく飲みに行くかな」
かなこさん、お店でもアグレッシブな性格のキャストだ。確かに、茉莉綾さんとも相性は悪くなさそうに感じる。
「かなこさんか。そういや俺もこないだダーツバーに飲みに行ったよ。美咲とも一緒に」
「何それズルい。私も呼んでくださいよ」
「わかった。今度、誘われたら呼ぶわ」
そう言っているうちに、二人分のカイピリーニャが運ばれてきた。俺たちはグラスを低めに持ち上げて乾杯をして、グラスを口元で傾ける。
「あ、美味しい。いいな、これ」
「ホントだ。すごい飲みやすいや」
適度に砂糖の甘味と沈んだライムの酸味が混じっていてちょうど良い。度数は高そうだし、飲み過ぎないように気をつけないといけないタイプだ。
「因みにカイピリーニャの度数は25度前後ですね」
「高ぇ」
気軽に最初に頼むもんじゃなかったかもしれん。店員さんも、茉莉綾さんが慣れてそうだったから勧めたんだろうけど。
「でも美咲ちゃんもやっぱり、先輩さんと一緒だとすぐ行くんですね」
「茉莉綾さんが呼んでも来るでしょ?」
この間も休日に遊びに行ったと美咲から聞いている。
「あの子、お酒はそこまで強くないのでバー巡りとかはためらっちゃって」
「まあ実際弱い方だよな、あいつは」
とは言え、その上で引き際を心得てるので、無理そうになったらすぐにソフトドリンクに切り替えるから、別に一緒に飲んでいて気になるということはない。それよりも、多少強かろうが、悪酔いしやすい古宮さんみたいなタイプの方が面談だし、酒に誘うには一旦躊躇する。
「美咲も茉莉綾さんのこと、嫌いじゃないだろうし普通に呼んだげてよ」
「先輩さんは美咲ちゃんのお父さんが何か?」
「先輩だって」
気をつけないとと思いながらカイピリーニャ、すぐに飲み切ってしまった。少し危険だ。
俺はモスコミュール、茉莉綾さんはブラッディメアリーを二杯目に頼む。まあ、言われてみたら確かにこういう頼み方は美咲と一緒だと躊躇するのはわかるはわかる。
「先輩さんと職場同じになったのは嬉しかったけど、そうなると気軽に飲んだり遊んだりは難しいかもと思ってたので、そんなことなく安心しましたよ」
「俺の場合はスタッフか微妙な立場だしなあ」
ガッツリとスタッフとして、特に店長に近い立場とかならキャストとの飲みとかもある程度控える必要があるのはわかる。片桐さんも、似たようなことを言ってたし。
「それで写真の掲載が増えたりするわけでもないし」
「あ、改めて写真ホントにありがとうございます。おかげで新規も獲得して更に羽振りが良いです」
茉莉綾さん、今ではもう完全にトラウマも克服しているように見えるので何よりだ。
「うーん、でもガールズバーとか直接お客さんと絡んだりは難しそう」
「ガールズバー、やりたいの?」
「そりゃやりたいよ。お酒飲み放題だよ?」
「多分だけど、飲み放題ではない」
ただ、確かにお酒好きで客と一緒に飲むキャバクラやガールズバーといった職種の方が、茉莉綾さんには合ってそうではある。
「片桐オーナーはそっち系の店は持ってないんだっけ?」
「セクキャバなら」
「ああ、なるほど」
セクキャバは、簡単に言えばお触りオーケーのキャバクラだが、それも茉莉綾さん的には無理なのだろう。
客との触れ合いがないという意味では、性的なパフォーマンスに忌避感とかさえなければ、見学店は楽は楽なのか。その代わりガラス越しであればどんな、変態チックな要求にも応えねばならないところもあるので、なかなか難しいところだ。
「うーん、ちょっと今のお店に甘え過ぎという自覚はあるよ」
「片桐オーナー、いい人だから」
あの人の元で心地よく仕事ができるのであれば、他に移るのが不安というのはよくわかる。
「そしたら俺と一緒にガールズバーとか行ったりする?」
茉莉綾さんとは何度か飲んではいるが、そういうタイプのお店には行ったことがない。茉莉綾さん的に、客として行ってそういう店の知見を広めるというのも悪くなさそうだ。
地下アイドルのライブだって、また別の機会作って行けば良いし。
「先輩さん、この期に及んでまだ女の子と遊びたいの?」
口に含んだモスコミュールが喉に流し込まれて咽せた。
「げほっ……ッ! 違う。違うって」
いや、今のは俺が悪いか。酒のせいにして最近ちょっと発言に気をつけなさ過ぎかもしれない。
「女の子誘ってガールズバーに行く男の人、めちゃくちゃ飢えてますよね」
「ちげぇって!」
焦る俺を見て、茉莉綾さんはころころと楽しそうに笑った。
「冗談ですって。先輩さんがそう言うなら遠慮しなくていいな」
「そうだよ」
「ガールズバーって女性割料金とかあるんで、私も安く飲めたりするからね」
「そうなんだ。それは知らなかったけど」
茉莉綾さんまで俺のことをナチュラルにからかい始めたら、俺は逃げ場を失うんだよ。
その後、俺と茉莉綾さんはもう一杯ずつカイピリーニャを頼んで、その日はお開きにすることにした。二人とも飲む量もあまり変わらない(なんなら平均したら茉莉綾さんの方が飲んでる)ので、茉莉綾さんと飲む時のお会計は割り勘で落ち着いている。
良い雰囲気の店だし、カイピリーニャも美味しかったから、茉莉綾さんとしてもリピート確定の店として登録されたらしい。
「それじゃあ、またね」
「ああ、また」
店を出て、俺はいつものように茉莉綾さんと駅前まで一緒に歩いて見送って、俺もまた帰路につく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます