本編

 僕は物心ついたときから東京都23区内の一つ、文京区に住んでいる。

 森鴎外や夏目漱石、樋口一葉など日本の名だたる文豪が多く住んでいた区域で、現在では区全体を通して「文豪の町」として町おこしがされている。

 文豪にまつわるスポットとして、根津神社がある。谷中・根津・千駄木、と三つの町名を合わせて「谷根千」と呼ばれるこの地域において、もっとも知名度の高い神社で、文学作品にも「根津権現」という名で何度か登場しているそうだ。

 その神社のはずれにひっそりと、お化け階段は存在する。

 そう呼ばれるようになったのは、ある噂に由来する。それは、「上るときと下りるときで、階段の数が変わる」というものだ。

 一段、二段、と数えながら階段を上る。上りきると四十段。しかし、下りるときにもう一回数えると三十九段と一段少なくなっているのだ。消えたり現れたりする段があるから、お化け階段。小学生のころはその噂が怖くて、使いたくなかった。

 段数が違うという噂が「勘違い」だと聞いたのは中学生になってからだ。お化け階段を上がった先の家に住んでいた岡やんが教えてくれた。

「ここが一段目な」

 一、とつぶやいた岡やんがスニーカーでとん、と地面を踏み鳴らす。そこをよく見ると、地面からわずか数ミリ高いだけだが、段差だと認識できる足場がある。

「上るときはさ、一段目が地面より若干高いってことがわかるからこの一段目もちゃんと数えられるんだ。でも、下りるときは無理なんだよ」

 それを聞いて、なんとなく理屈が分かった気がした。

 階段を降りるときは、当然だけど段を上から見下ろすことになる。二段目から上の段はある程度の高さがあるから、下りるときも段差として認識できる。

 でも、地面とわずか数ミリの一段目は上から見てしまうと、角度による見え方の問題でほぼ地面と同調してしまっているように見える。だから、下りるときは一段目を段の一部として認識できない。その結果、数え間違えて段数が一段減ってしまっているように感じる。これが、お化け階段の噂の正体だ。

 事実がわかってしまえば、なんでもない。階段の数が一段減る、なんて超常現象は起きておらず、全ては、単純で騙されやすい「人間」という生き物の勘違い。ちょっと考えればわかることだったのに、易々と信じてしまったのは、怖い話を聞きたがり、信じたがってしまう人間の悲しい性だ。

 それから十二年。すっかり社会人になった僕は、お化け階段を上っていた。

 大学を卒業して地元の中小企業に入った僕は、実家でお盆休みを過ごしていた。その年も母は律儀に、ご先祖様が帰ってこられるようにとナスとキュウリで精霊馬を作って仏壇に供えていた。

 休みは一週間。すでに三日目となっていたその日は、やることもなくぶらぶらと街中で過ごした。クーラーの効いた図書館で雑誌の新刊を読んだり、レトロな雰囲気を残す地元の喫茶店でかき氷を食べたり。

 お化け階段を上ってみようと思ったのは、岡やんとすごした学生時代を思い出したからだろうか。サンダルを履いた僕の右足は、あの薄い一段目に向かっていた。そこを上がれば、家まで近道なのだ。

 暑さが尋常じゃなかった。綿100%のTシャツは汗でじっとり濡れ、背中に張り付いていた。

 おーい、と上から声がした。顔を上げてみても、そこからでは誰がその先にいるのかわからなかった。

 階段の一番上に小学校高学年ぐらいの女の子が立っていた。ボーダーの半袖シャツと丈の短いオーバーオールを着ていたその子は、僕の顔を見てにっかり笑った。日焼け止めをしているのか、夏でも肌は真っ白だ。

「お兄さん、あたしとグリコやろう」

 女の子は、鈴を鳴らすような澄んだ声を響かせた。

「グリコ?」

「やったことない? じゃんけんして、グーで勝ったら、ぐーりーこ、で三段上がれるの」

「ああ、あれか」

 階段で友達とよくやった遊びだ。パーで勝ったら「ぱいなつぷる」、チョキで勝ったら「ちよこれいと」で六段移動ができて、先に階段を上りきった人が勝ち。

「お兄さん、あたしと勝負しよう」

「やだよ、友達を呼べばいいだろ」

「無理。みんな忙しいって遊んでくれないんだもん」

「それはかわいそうに。でも、知らない子供と遊ぶのはなあ」

「あたし、イザヨイカナミ」

「名前を教えればオッケーってことじゃないからな」

「えー、ずるい。揚げ足取らないでよー。ねー、お願い! 一回だけ!」

 カナミは懇願するように、手を合わせた。

「昔と違って、最近の小学生は忙しいんだよな」と、今年小学生になる甥っ子を持った岡やんがぼやいていたのを思い出した。小学校四年生ぐらいでも、学習塾の夏期講習に追われたりするらしい。

「……わかったよ。一回だけな」

「やった!」

 女の子は嬉しそうにガッツポーズした。

「じゃっ、一番下から上まで先に行った方が勝ちね」

「はいよ」

「ゴールまで行けても、文字数ぴったりじゃなかったらバックね。あと、真ん中の踊り場も一段に含むから」

「わかったよ」

 せっかく上った階段だが、また戻る。どこか遠くで鳴いている蝉の鳴き声が、やけに耳についた。

「行くよ。最初は、グー」

 女の子が、じゃんけんの音頭を取る。

 じゃーんけん、ポイ。僕がグーで、カナミがパー。

 ぱいなつぷる。カナミが六段上がる。

 今度はチョキで僕が勝った。ちよこれいと。カナミと並ぶ。

 勝負は続く。ぐりこ、ぱいなつぷる、ぐりこ、ちよこれいと、ぐりこ。

 二十分ぐらい経っただろうか。お互い踊り場は超えたとしても、どうしても字数が余ってしまってゴールまでなかなかぴったりたどりつけないのだ。

「ち、よ、こ、れ、い、と。……やった、あとちょっとだ!」

 カナミがゴールにたどり着くまであと六段。次、チョキかパーで勝てば彼女の勝ちだ。勝ち負けにこだわる方ではないけど、少し悔しかった。

 そのころにはふらふらしていた。カナミと違って、運動不足の大人である僕は、少しの外遊びでも疲れてしまうのだ。

「ねえ、お兄さん」

 一番上を眺めていた彼女が、くるりと振り向いた。

「あたしが勝ったら、……になってよ」

 大事そうな言葉は、湿気た熱い風でかき消された。

「ごめん、よく聞こえなかった」

「あたしの夫になってよ」

 にたりと、カナミの唇が引きあがる。

 何を言ってるんだ?

「あたしね、昔は夫がいたの」

 言葉を発せない僕に構わずカナミは続ける。

「最初は二人とも愛しあってたんだよ。でもね、あの人が約束を破ったの。約束を破るのはいけないことでしょ? だからもっと喧嘩して、別れたの。それからはもう会ってない」

 階段の上から生暖かい風が吹く。生ものが腐ったような匂いも漂ってきて、胸が悪くなる。

「一人になってもちゃんと生きていけたんだけどね。お兄さんの目、あの人にそっくりなんだもの。懐かしくなっちゃった」

 眩暈がして、膝から崩れ落ちた。

 見上げたカナミの顔は人間のものじゃなかった。透き通るように白かった肌は青白くなり、米のようなものが顔中を這いまわっていた。小学校の図書室にあった戦争漫画で見たことがある。あれは、うじだ。

「あたしが、勝つから。あなた」

 老婆のような低い嗄れ声で笑い、カナミは握りこぶしを振り上げた。

 そのとき、何かが飛んできてカナミの頭を直撃する。

 痛い、と彼女は頭を押さえてうずくまった。

 ドタバタ、と焦っている足音が階段を下りてくる。

「すみませんっ! ぶつけちゃいましたか!? ……おおっ? 和樹じゃん」

 ぱんぱんに膨らんだレジ袋を手にした岡やんが、呆然と僕を見ていた。

「何だよ、その袋」

「これか? 甥っ子がフルーツポンチ食べたいって駄々こねっぱなしでさ。材料ついでにオレ用のジュースも買ったけど、弄んでたら飛ばしちまった」

 僕の足元に転がるジュースの缶。カナミに当たったのはこれだったのだ。

「どっか当たったか?」

 袋に入りきらなかったジュースを片手で投げて遊んでいたら、手が滑って飛ばしてしまったのだという。

「僕は平気だけど、カナミの頭に直撃……。あれ?」

 僕の横にいたはずの、華奢な少女の姿は消えていた。

「誰、カナミって」

「さっきまでここに女の子が」

「マジ? オレが来たときにはいなかったけど。下行ったんじゃねーの?」

 そうかもしれないが、足音一つ聞こえなかったのが不思議だった。

「げっ、お前顔真っ赤だぞ。熱中症とかでぶっ倒れそう」

 言われてから、頭が痛いことに気がついた。

 碌に水分を取らないまま、炎天下の階段で遊んでいたのだから当然だ。

「水分とれよ。多めに買ったから、ほらよ」

 岡やんはにっかり笑って、袋からさっきと同じジュースを取り出した。

 老舗お菓子メーカーの白桃ジュース。渇いた身体を湿らせるには十分だった。

 しかし身体には相当負担だったのか、帰宅後高熱に襲われ、病院で「熱中症」と診断された。


 あれから一年が経つ。

 僕がお化け階段で出会った「イザヨイカナミ」と名乗った少女は何者だったのか。その夏は真剣に頭を抱え、夜も眠れないほど恐怖した。

 しかし、ある話を思い出した。日本神話の「イザナミとイザナギ」の話である。

 詳細は省くが、日本神話にはイザナミとイザナギという神の夫婦が登場する一エピソードがある。妻である女神、イザナミは火の神を生んだ後に死亡し、紆余曲折を経て黄泉比良坂で夫と決別する。

 カナミは「昔、夫がいた」と言っていた。少女の姿かたちをしていたが、人間ではなかったのだ。そして「イザヨイカナミ」というあの名前。偶然なのか、最初と最後だけ読めば「イザナミ」になる。

 彼女と会ったあの日はちょうどお盆だった。死者が生者たちの世界に戻ってくる季節。かつて共に暮らした夫が恋しくなり、似ている生者を夫の代わりとして連れて行こうとしたのだろうか。

 僕が体験した怪談はこれで終わりだ。最後の話は、僕の勝手な空想だと思ってもらって構わない。イザヨイカナミという名の不思議な少女は、熱中症になりかけだった僕の幻覚だったのかもしれないのだから。

 根津のお化け階段には何もない。幽霊もお化けも出ない。しかし、異界と繋がってしまう場所が階段だったりもするそうだ。皆さんも、通る時は気をつけた方がいいかもしれない。

 階段の先に異質な何者かがひそんでいるときもあるのだ。

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お化け階段奇譚 暇崎ルア @kashiwagi612

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