第9話


 鹿島黎人は足取りも軽く出社する。


 数日前、後輩である航の尻ぬぐいを終えたのだが、今日あたり、会社としても正式なゴーサインが出て先方に契約書を届けに行くことになるだろう。


 黎人は大丈夫だと保証したのだが、それでもここしばらく、航は死にそうな顔をしていたのでようやく安心するだろう。

 独断専行はよろしくないが、立場の弱い業者が泣くことに憤慨して思わず突っ走ってしまった航の性格は嫌いではなかった。


(あいつ、おもしれーな)


 これまで周りにいなかったタイプであり、見ていて飽きない。なので思わず手助けをしてしまったのだ。


 黎人がオフィスに入ると、航はとっくに出てきており、何やらそわそわしていた。

 おそらく上長が正式な契約書に判を捺してくれるのを待っているのだろう。


「相田~~~~っ!」


 そんなとき、オフィス全体に聞こえるような大声が響き渡り、オフィス中の人間が声のする方に注目する。


 呼ばれた航など、反射的に席から立ち上がって直立不動になっていた。


 オフィスの入り口に、日頃ここでは見ることがない巨漢が立っている。

 あらゆるパーツがデカく、ゴツく、熊だと言われれば信じたくなるような大男だ。


「おぉ、お前が相田か!」


 のしのしと熊は大股で航に近づいていく。ただでさえ人見知りの航は完全に一杯一杯になってしまっていて、「ひゃ、ひゃい」とだけ返すのが精一杯の様子だ。


 だがそれも無理はない。


 航が震え上がってしまったのは、相手が熊のような大男だからというだけではない。

 このオフィスでは見たことがなかったが、男の名前は黎人も知っている。


 彼の名前は荒木三太。

 樹リース、常務取締役―つまり、重役である。


 あの手の体育会系丸出しといった雰囲気は苦手だろうし、なによりまだ若手の航は荒木のような重役と直接話したことなどないはずだ。


 黎人も、せいぜい顔と名前を覚えている程度である。

 顔色を蒼白にさせている航の心境が、手に取るようにわかった。


(あいつのことだから、「絶対に怒られる。理由がなにかはわからないが、とにかく怒られる」とか考えてそうだな)


 とはいえ、黎人も常務がわざわざやって来た理由がわからない。航の契約については、黎人が問題なく処理したはずだが、何か警告しにきたのだろうか。


 それにしたところで、常務がわざわざ直接やってくるのは常識外れも甚だしい。そう思い込んでいた黎人だったが、荒木から出てきた言葉は真逆のものだった。


「よくやったっ!」


「え? 僕―自分が、ですか?」


「そうだ! 今度契約を結ぶ苅谷建設の件だが、先程先方から直接お電話をいただいた!」


 どうやら風向きが違うぞと耳をそばだてる。


「詐欺だったのだよ」


 航にはなんのことかわからずに、ひたすら困惑しているだけのようだった。


「君が競っていた、別のリース会社があっただろう?」


「あ、はい。小売りに迷惑がかかりそうな価格設定の……って、もしかして?」


「そう、その輩が、詐欺グループだったとわかったらしいのだよ。今、警察が動きはじめたらしいが、君が強引に割り込まなければ被害に遭っていたかもしれない、と先方から直々にお電話をいただいたということだ」


「なんと……」


 離れた場所で聞いていて、思わず口笛を吹きそうになった。

 航は青臭い正義感で、ただ夢中で契約を取ろうとしただけだろう。


 なりふり構わず突っ走った結果、小売り店を救うのではなく、犯罪を阻止してしまったというのだ。


 まさに青天の霹靂とはこのことだろう。


「あ、あの、ちょっと突っ走って他の部署にご迷惑をおかけしたかもしれませんが……」


 言わなくてもいいはずのことだが、バカ正直にも打ち明ける。


(あのバカ。余計なことなんか言わずにいればいいのに)


 常務などというポジションには、航のやらかしなど一々伝わってないだろう。

 苦笑しながら見守っていると、荒木は豪快に笑い飛ばしただけだった。


「結果よければすべて良し! これからも励みたまえ!」


 それだけを言うと、荒木はオフィスを大股で歩いて出ていく。

 まるで嵐が通り過ぎたように、オフィス中がしーんと静まりかえる中、黎人は笑いをこらえるのに一苦労していたのだった。


 周りが落ち着いたのを見計らってから、黎人はこっそり航に話しかける。


「よ。うまくいってよかったな! 契約も取れたし」


 手放しで喜ぶかと思いきや安堵の方が大きかったらしく、目に見えてホッとした様子だった。


「いや、もう、何が何やら……ただ僕は、この会社に入って初めて味わいました、こういう達成感みたいなの」


「契約取ったの、初めてじゃないだろ?」


「はい、でも、相手を説得して意見を変えさせて、それでその結果が喜ばれたの―つまり、鹿島さんが言ってた『ハッピー』になれたの、初めてだと思います」


「そうか? だったら、悪くないだろ、営業もさ」


「たぶん。あ、いや、まだわからないかもしれないですけど……」


「へへへ。相変わらず慎重な奴だぜ。けど俺達、いいコンビかもな! 肩の荷が下りたとこで、今夜もヨロシクな!」


「はい! 今日中に苅谷建設さんの案件はひと区切りつきそうですから、帰ったら思い切り遊びましょう!!」


 航はようやく、そこで笑顔を見せるのだった。


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仕事が終われば、あの祝福で 氷上慧一/ファミ通文庫 @famitsu

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