第6話、人物

 部屋は午後のあたたかな日の光に満ちていた。待っていた夜燈が眉間に深い皺を刻んで声を漏らす。彼は尚王の様子を見に来たが、仲燿しかいないことに頭を痛めていたらしい。王がとももつれず城下へ出るなどあってはならないことである。とはいえ、彼の乳母の長男は衛兵として優秀であり、上手く見つけて連れ戻すのであるが。


「まったく、飲み過ぎかと思えば抜け出したとは……」

「もう言うな」


 夜燈にねちねちと言われて、さすがにうんざりと尚王は彼を見やった。尚王の机の上には木簡もっかんがあり、今は夜燈の言うことを書き留める講義である。酒の害から、酒に酔ったものが起こす災いが事細かに書き連ねられる。つまり、酒に酔ってごめんなさい、もうしませんという反省文だ。


「なんですか。人を凝視するものではありません。王に睨まれれば臣下は萎縮します」


 そう言うおまえは絶対、萎縮なんてしないだろうと思う。ずけずけとものを言うのは尚王の父の頃からそうであったらしいから、性格だろう。この口うるささにはきっと父上も閉口していたに違いない。尚王の父は十二年前、尚王が三つになる前に崩御している。急な病であったらしいが、夜燈による毒殺という噂さえあったようだ。


 ……昨夜、狙われたのは夜燈だろうか。俺を操って政をほしいままにしているとささやかれている。皓華の遺民を抑えるため、地方の力を削ぐためにいろいろと強硬なこともしたという。外からも内からも恨まれていておかしくない。このところ痩せたのも、まさか毒のためか? しかし、あれだけ吐くほどの毒を盛られているとしたら分かるだろうに。


「天子様、真面目にお書きください」


 木簡を削り文字を直すための刀子とうすをもてあそびながら、尚王は考える。もし、誰かの目標が夜燈だとしたら。ここしばらくで、本人に気づかれないよう、わずかずつ盛ったことになる。食べてすぐに死ぬことがないように。何のために? そして昨夜はどうも多くを盛ったようだ。いったい、なぜ?


「……身が入っていませんね」

「だから言っただろ。飲み過ぎたって」


 夜燈は細く息を吐いた。そういえば、夜燈は大舟とあの史官のことは知っているだろうか。大宰様は下働きのことまでわからないかもしれないが、夜燈なら王宮に出入りする者は把握していてもおかしくはない。とはいえ、突然に厨房の下働きのことを聞きたいと言えば警戒するかもしれない。大舟にあらぬ疑いが向けられて彼の迷惑になるのは困る。


「そういえば、見慣れない史官がいた。女だ。若いがどうした」

「女……ああ、璃珠りしゅですか。姓は持っていませんが、優秀な史官ですよ」


 尚王の父、勇王は優秀な成人であれば誰でも官人の登用を認めた。赫華の成人は男なら二十、女は十五だ。女のほうが若いのは成熟が早いと考えられていたためである。多くの女性は成人と同時に結婚して家に入らなくてはならなかった。出産が命懸けであったこの時代、女性が妊娠育児と仕事を両立することは負担が大きかったといえよう。


「十五ですが記憶力がよく故事に通じています。文章はやや危ういですが、十分なものです」


 ともかく、彼女は十五の若さだという。夜燈がこう言うからには、よっぽど優秀で重用されているらしい。姓がないということは貴族ではないのだろうが、いったいどこでそれを学んだものだろうか。


「天子様の指南役にいいかもしれませんね……」


 尚王は慌てて首を横に振った。


「それで、どうして彼女のことを?」

「ん、と、酔い潰れそうになったのを介抱してくれたんだ」


 それはだいたい本当のところであったが、夜燈はいよいよ顔をしかめた。彼が何か言う前にと、尚王は問いをぶつける。


「そうだ。厨房の下働きも知らないか? 彼女と一緒に助けてくれた。たしか……舟といったな」

「舟……」


 夜燈は考えて、やがてこう答えた。


「彼は奄人ですか?」

「そこまでは知らない。二十二、三くらいだと思う」

「……おそらく、そうでしょう。最近、よく働くと他の厨房から移された者だそうで」


 さすが夜燈だと尚王は思った。名前も知らない厨房の下働きだろうが、王城の者には目を光らせている。そういうところが息苦しくて嫌になるのだ。それに、王は細々としたことを気にしなくていいと教えたのは夜燈ではないか。


「彼にも介抱されたのですね。あまりひどい姿を見せないでください」

「分かってる。助かったから、褒めてやってくれ」

「……分かりました。なにがしか考えておきましょう」

「口を塞ごうなどとは考えるなよ」

「当たり前でしょう。天子の醜態は天子がせきを取らねばなりません」

「ああ、ならいいんだ」


 決して飲み過ぎたわけではないのだが、夜燈に本当のところを言えないというのはもどかしい。そういえば、吐き気が起こる毒か。半ば伝説のように語られる鴆毒には、そうと言われる偽物があり、それは吐き気や下痢をもたらし死にいたらしめる毒だ。ごく少量であったとしても食事に盛り続ければ、次第に体がむしばまれて死ぬだろう。


「叔父上」

「はい」

「最近、体調悪くないか?」


 夜燈の目が少し揺れた気がした。けれども、夜燈は硬い口調で否定する。


「いいえ」

「……あまり食べてなかったみたいだし」

「客人の前で貪るのはよろしくないことです」

「そうだけど……」

「兄上が亡くなり、ようやく国が落ち着いた。今が大事な時です。ここで倒れるわけにはいきません」


 そう言ってこの話題を打ち切ろうとする。この真面目な叔父が、勇王とせず兄と親しく呼ぶのはあまり聞かない。ずいぶんと思い詰めているようにも見えた。本当にこの叔父が俺の地位を狙っているのか? 尚王はまたわからなくなってきた。

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