第5話、誰が

 寒梅が言うには、王用の杯を夜燈に出してしまったのだという。王城にも玉杯はいくつか用意されているが、それは誰のものとひとつひとつ決まっているわけではない。決まっているのは王のものだけらしい。昨日の宴でも玉杯は使用され、その中でも一番上等のものが王に出される手筈であったのだ。


「まあ、杯なんてたいして変わるもんでもないし」


 同じような玉杯だ、誰に出したって別にいいだろうと言えば、寒梅は珍しく露骨に眉をひそめた。王の前でこんな顔をすれば不敬になるだろうが、他に誰も見ているものはいないのでかまわない。それよりも、何がそんなに不愉快にさせたかのほうが重要だった。寒梅は声を落とし、険しい口調でこう言った。


「天子様。私の首では、あの玉杯のひとつにもなりません」


 玉は高価なものだ。この大陸でも限られた土地からしか採れない。はるか昔――黎華以前、七王や三昊五埿さんこうごでいの時代から珍重されてきたものだ。ゆえに玉製品は献上品として用いられるし、下賜かしする品ともなる。さすがにそのくらいは覚えていた。杯にできる大きさがあり、そのなかでも高級な白色とくればさらに数が限られる。


「む」

「王には権威がなくてはなりません。他のものと違うからこそ貴ばれるのです」

「権威なんて、俺が自分で身につけたものじゃない」


 尚王は口をとがらせた。王であるのは自分のせいではない。祖父が王を名乗り、父が皓華を倒したがためだ。周囲に王というのは偉いものだと振る舞われるたび、尚王は地に足がついてないように感じていた。けれども、寒梅はいよいよ呆れたようにため息をつくのだった。そして、小さな子供に言い聞かせるように説明する。


「権威がなくなった王は軽んじられ、簡単に蹴落とされますよ」

「……皓華のように、か?」


 皓華、先代の華国だ。王家の姓をとって皓華と呼ばれるのは、滅びてこの国が建ってからのことだ。尚王の祖父が衡大公を味方に兵を挙げ、今から十五年前に父、勇王が滅ぼした。尚王にとっては生まれる前の話だが、皓華の時代を覚えているものはまだまだ多い。良くも悪くも六百年の長きにわたって続いた華国だったのだ。


 首をすくめて見せると、寒梅がじろりと非難の目を向ける。こういうところは彼女の母に似ている。乳母は夜燈に対しても、気に入らないと思えば食ってかかった。特に尚王や仲燿のことについてだが、仲燿の乳母と並んで夜燈が言い負かされる数少ない相手の一人だ。普段はずいぶん穏やかな人であるのだが。


「天子様」

「……わかったよ。今度から、もっと大事に扱うから話してくれ」

「はい。分かっていただけて嬉しいです」


 寒梅はにっこりと笑って念を押した。彼女は尚王より八つほど年上だ。尚王と同じくして生まれた乳母子はすでに亡くなっているから、この寒梅が姉のようなものだった。小さい母のように世話を焼かれたといっていいかもしれない。ともかく、今でもまったくかなわない。


「俺の使う杯を叔父上に出したわけだな?」

「そうです。一番良い杯を天子様にお出しするのですが、それが、落としてしまって……」


 普段は重ねていて上から配る。落としてばらばらになったのを慌てて重ね直したので、その順番が変わってしまった。日も沈み松明の光しかない中、杯を誤ったのは仕方がないだろう。上質の玉とはいえ、他の玉杯が全く違うものというわけでは決してない。王宮で使う以上、良いものに決まっている。尚王だって他の玉杯と見分けがつかなかったのだから、責められまい。


「で、叔父上に、ということか」

「給仕に伺ったとき、衡大公様が大宰様に『王のように良い杯をもっている』と話しておいででした」

「ふうん?」


 衡大公は王の杯に気づいたようだ。夜燈も気づいたはずである。彼は、王ではないものが王の道具を使うことをよしとしないだろう。しかし、尚王が来る以前、夜燈が彼らを叱ったわけではないらしい。


「それで衡大公に叔父上はなんと返した」

「それが……何もおっしゃらなかったのです」

「どういうことだ?」

「それで衡大公様が笑って……それ以上は何も。私、てっきり大宰様が怒っておられるのかと……」


 それはおかしい。人が間違ったからといって王のものを平然と使うはずがないのだ、あの堅物かたぶつの太傅は。衡大公に言われてその意味に気づかないはずがない。それなのに、給仕に言って杯を変えさせなかったというのはどういうことだろう。宴の場を乱すのはよくないと思ったのだろうか、いや、しかし……。

 もしかしたら……と腹に苦いものが落ちる。これは、いよいよ彼が王になろうとしているのかと尚王は疑念がわいた。衡大公もあえてそれ以上言わなかったあたり、それに異はないのかもしれない。役立たずの王を廃して、夜燈が王位につく。……王の窮屈さを感じていながら、それは不愉快だと思った。


 いや、それはともかく。考えていた尚王は顔を上げて、もう一度聞き直した。


「俺は偶然、いつもと違う杯を使っていたわけか」


 ということは、あの毒は尚王を狙ったものではない。狙われたのは夜燈か衡大公か……おそらく仲燿ではないだろう。犯人は狙いとは違う者を殺しかけたことになる。順番通りに杯は重ねられているのだから、出席者の席次が分かれば狙いの杯に毒を塗ることはできるのではないか。


 ふと、毒を飲んだ尚王を見て「まさか」とつぶやいた男のことが浮かんだ。


(……だから助けたのだろうか)


 尚王がうめいている横で、妙に落ちついて吐かせていた男。「あの男を信用するな」か。


「いかがいたしました」

「そういや、厨房にも下働きの奄人がいるよな。あいつ、上手くやってる?」

「ああ。最近入った……」


 寒梅は思いあたったように、大舟のことを話す。彼女よりだいぶ後に入った上、身分が違う。けれども、彼女は歳の近い彼のことを何かと気にかけていたようだった。それによると、官人にぞんざいに扱われることはよくあることらしい。下手にかばって厨房で暴れられても困ると料理長が言うので、手が出せないのだという。


「よく働くんだけど、ときどき何してるかわからない時あるんですよ。わからないなら言ってくれればいいのに……こちらが声をかけても謝るだけで、どうしたら良いのか……」

「そうか」


 厨房で嫌われているわけではないようだが、気にかかる。毒を盛ったやつと、殴られて身を縮めていた大舟の姿が結びつかない。尚王は大舟を頭から疑いたくはなかった。できれば、そんなこと戯言たわごとだと切り捨てたかった。しかし毒のことを放置しておくわけにもいくまい。少し、どんなやつか調べてみることにしよう。

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