ささくれ

MITA

第1話

 放課後の図書室は窓から途切れ途切れに入ってくる茜色の日差しのせいで、わずかに埃っぽさが目立つ。真正面にある白黒の円い時計をじっと見つめながら、私は独りカウンターに座っていた。


 ごめんね。私は夏美に会ったら、もう一度、そう一言謝ろうと決めていた。もともと、放課後に一緒に帰ろうと誘ったのはこっちの方だったのだから。今日発売される推理小説の新刊を一緒に本屋で買って、読んで感想を言い合う。それを楽しみにしていたというのに、同じクラスにいるもう一人の図書委員の子がインフルエンザで休んだせいで、急遽その代役となってしまったのである。


 時計の針が五時半を指したことを確認して、座っていた丸椅子から立ち上がると、「お疲れ様でした」と帰りの挨拶もそこそこに、私はカバンを持って図書室から駆け出した。図書委員の仕事は本当は六時まであるのだけれど、家が遠い人は少し早めに帰ることが許されている。後のことは図書の先生に任せて階段を降り、昇降口で上靴を脱ぐ。ちょうど隣にある夏美の下駄箱から靴は消えていた。とっくに学校を出たに違いない。


「もう、電車も出ちゃったかな」


 靴を履き替えながら、思わず独り言が出てしまう。夏美とは家が隣同士の幼馴染で、山の中にある無人駅から電車に乗って通学する。帰りの電車は最寄りの駅から五時発と六時発の二便だけだ。それを逃すと家まで直通の電車がなくなるから、親に車で途中まで来てもらわなければならない。


 夏美は駅で待っているかもしれない。十中八九帰っているだろうけど、もしかしたら。そんな淡い期待を胸に、自転車を漕いで駅までの道を急こうとする。校門を出ようとしたところで、校舎の外周を走っている運動部の生徒に声をかけられた。


「幸子ちゃん、もう帰るの」


 クラスメイトの真里ちゃんだ。こちらに駆け寄ってきて、足だけ動かして、その場に留まっている。クラスであまり話したことはないけど、明るく活発で友達の多い子だ。


「うん、六時だと帰りの電車に間に合わないから」


「いいなあ、私も早く帰りたいや。うちらの顧問、水原先生でしょ。去年全国に出ていい成績だったから、今年こそは優勝だーって張り切ってるのよ」


「真里ちゃん、テニス部だっけ」


「そうそう……あっ、そうだ。幸子ちゃんさ、武志の好きなもの教えてあげよっか」


 幸子はその質問にどきっとした。なんで真里ちゃんが、武志くんのことを。


「夏美ちゃんに聞いたの。いいじゃん、私も二人はお似合いだと思うよ。武志って意外に行動力あるしね。学級委員長も、他の誰もやりたくなさそうだったのに、まっさきに手を上げたでしょ。まあ、ちょっと真面目すぎるときもあるけどさ。頑固一徹って感じ? 最近だと珍しいタイプだよね」


 その話に、自然と口元がこわばるのを感じた。どうして夏美は、私が武志くんのことが好きだってことを、他の人に話してしまったんだろう。もし武志くんの耳にその話が届きでもしたら。そんなことになったら、明日からどう接していいのかわからなくなってしまう。


「そんな顔しなくたっていいよ。大丈夫だって、ちゃんとサポートするからさ。私、あいつとは幼馴染だから。好みとか知ってるんだ」


 その言葉に、私は何も言えなかった。心の底では本当はひとこと何か言っておきたかったのだけれど、そんなことをしても意味がないことは頭でわかっていた。真里ちゃんに悪気はないのだ。


「げっ、水原だ。早く戻らなきゃ。じゃあね、幸子ちゃん。また明日!」


 私がそんなことを考えている間に、先生が近づいているのに気づいた真里ちゃんはランニングに戻っていってしまった。


 駅までの道中、自転車のサドルを踏み込む足は重かった。心に生まれた、もやもやとした気持ちがずっと晴れなかった。夏美にとって、私がクラスの男子の誰が好きかなんてことは、友達と会話するうえでの単なる話の種にすぎなかったのだろうか。それともそんなのは私の考えすぎで、むしろ夏美は全くの善意で、私の恋を叶えるために真里ちゃんに相談したのだろうか。そうだったとしたら、むしろそっちのほうが嫌だな、などと心の隅で思いながら、ふと我に返って、そんなことを思ってしまう自分が嫌になった。


 契約している駐輪場に自転車を止めて駅に入ると。時計の針は五時五十二分を指していた。人はまばらで、辺りに夏美の姿はなかった。定期を通して改札を抜けて、階段を登っていく。ホームには既に電車が来ていて、数人の乗客が中に乗っていた。


 私はホームに、夏美を見つけた。声をかけようとしたところで、思わず息を呑んだ。武志くんが、夏美と抱き合っていた。


 そのときの私は、滑稽な顔をしていたに違いない。私が声を出そうとする前に、夏美がこちらに気づいたようだった。慌てて武志くんを身体から剥がし、こちらに何かを言っていた。それでも私には夏美が何を言っているのか分からなくて、胸が締め付けられてどうにかなりそうで、思わず踵を返して階段を駆け下りた。後ろで夏美が何かを叫んでいるのが聞こえたが、何も届かなかった。駅のトイレに引きこもり、独りで目を腫らした。


 時刻は六時を回っていた。私は次に来る電車を待つことにして、電話でお母さんに途中の駅まで迎えに来てもらうよう頼んだ。夏美からの着信は夜になるまで入らなかった。それでも結局、私は電話に出ることができなかった。夏美に何を言われても、心のささくれだった今の私には、彼女の言葉を素直に受け取ることなどできそうになかった。


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