第16話「事務所炎上」

「……分かりました。今近いのですぐに行けると思います!」

 数度頷いたのちに三笠は電話を切る。その顔は明らかに焦っている。ただ事ではないと初瀬も察してしまった。

「何事?」

「うちの事務所が炎上してるって……」

「え? それは何、掲示板とかじゃなくて、物理的に?」

 初瀬の言葉に三笠は力なく頷いた。

 無事に記憶の欠片を受け取り、二人は帰路についていた。市内へ戻ってきたころには二十時を過ぎており適当にご飯でも食べて帰るか、などと話していた最中だった。切迫した声のあずまからの電話で『事務所が燃えている』という情報がもたらされたのだ。

「とりあえず近くにいるなら行ってくれって頼まれたんだけど、行ける?」

「行けるよ。市内の運転なら得意だから任せて」

 このまま帰宅する予定だった二人は急いで進路を変更して事務所へと向かう。サイレンの音が響く中二人は車を降りて駆け出した。交通規制などがかかっていないことから燃え始めてからまだ時間が経っていないらしい。

 熱気と異臭が全身を包み込む。灰と燃え残りが舞い上がる。

「これは……全焼で済んだらいい方だ……」

 三笠が悔し気に顔を歪める。延焼が怖いところだ。消防士たちが消火活動を始めるのが視界の端に映り込む。野次馬は遠巻きにこの惨状を眺めていた。

「逃げ遅れた人とかは!?」

「いないはず! みんな出払ってたって」

 ひとまずその事実に安心する。盛んに火の粉を上げる建物を見ていると、どこからかジワリと不安が滲み出してきた。

「三笠!」

 その声と共に飛び込んできたのは鷦鷯だった。彼は髪を乱しながら二人のもとにやってくる。

「さ、鷦鷯さん」

「俺も消火活動を手伝う」

「は、はい」

 珍しくはきはきと喋る鷦鷯に、三笠は驚きながら頷く。彼は三笠の返事を聞くや否や、チョークを取り出してアスファルトに線を描き始めた。鷦鷯の作業はすぐに終わった。彼は手に着いた粉を叩き落としながら三笠に耳打ちをする。

「この炎、魔力を含んでいる。ただの火消じゃ太刀打ちできない」

「えっ、それってつまり──」

「いいか、周りを見ておけ」

 今度は三笠のリアクションを待たずに鷦鷯はしゃがみ込む。

「この星に揺蕩うすべての生命の源よ」

 ふわ、とどこからか水の香りが漂う。鷦鷯の取り出した魔術式符は融けるようにして宙へ消える。次第に水の香りは濃く、強くなっていく。

「撓み、移ろい、昇華する、七変化を超えて我が声に応えよ。──励符『錦呼水』」

 水路から、アスファルトの割れ目から。魔力を帯びた水が溢れ出す。それはたちまちのうちに道路を水浸しにしていく。野次馬のどよめきと、せせらぎのような清らかな音が混ざり合う。それを耳に流しながら三笠は周囲を警戒する。

(魔力を帯びた炎ってことは、確実に魔術師の仕業だから……襲撃者がいるとなれば、鷦鷯さんの消火活動を阻止してくるかもしれない)

 ただならぬ緊張感が全身を支配する。息を深く吸えば人の動きが酷くゆっくりに見えた。広がる視界。人の波の中に、一つの違和感。

「させるか!」

 身体が動く。鷦鷯に向けて放たれた火の矢を三笠はその身で受ける。矢が刺さる痛みよりも早く炎がその手を伸ばした。

「っ……! 『山雪』!」

 短い詠唱と共に魔術式を展開する。滅多に使うことのない消火専用の魔術だ。冷気と共に冴え渡る魔力が散って、熱を飛ばした。火傷した箇所を一瞥して、傷の程度が浅いことを確認する。

「三笠!?」

「初瀬! 放火犯が近くにいる!」

 初瀬に一声そう言ってから三笠は駆け出した。先ほど一瞬だけ視界に入った人影を探す。人波を縫い、流れに逆らってその手を伸ばす。

「つか──まえ、た!」

 伸ばした手は下手人の肩を掴んで引き寄せる。しかし向こうもただ引っ張られるわけではない。想定よりも力強い抵抗に三笠は思わずバランスを崩した。

(しまっ)

 転びながら臍を噛む。ここで取り逃がせば次のチャンスはないだろう。人込みから転がり出た二人は狭い路地に入り込む。

「待ちなさい。それ以上抵抗するなら、こちらも力づくで止める」

 顔を上げるより早く初瀬の声が上から降る。下手人はというと、初瀬のその忠告を無視して身構えた。

「三笠! 止めろよ!」

「分かってる!」

 群衆が近くにいる以上、三笠の魔術は効果を発揮できない。となればとる戦法は一つ。

 三笠は下手人の腕を叩き、その胸倉を掴んで引き倒す。下手人──男は小さな悲鳴を上げた。

「は、なせ……!」

 一際強い抵抗と共に火が生まれる。三笠は思わず身を引くも、手だけは離さなかった。

「いっ……つぅ……」

 じりじりと身が焼かれていく感覚に、三笠は歯を食いしばる。被せるようにして『山雪』を発動させてはいるが押し負けてしまっている。ついに三笠はその手を放す。解放された放火魔の男は駆け出そうとするも、初瀬がその背を押さえようと手を伸ばす。逃がすまいと、二人から交互に妨害される男は酷く煩わしそうにその顔を顰める。

「チッ……まとめて燃やしてやる!」

「逃がすか!」

 男が腕を振るうと同時に三笠が飛び掛かる。魔術を発動するかと思われた男の手元からは強い光と煙が生まれた。三笠も初瀬も思わず身を引く。

「ここは今、旧き辺獄へと化す──」

 ぼそぼそと聞こえる詠唱に三笠の全意識が引っ張られる。

(マズい! 雰囲気からして、それなりのだ!)

 察知した気配を捉えるべくその手を伸ばす。

「三笠! 引け!」

 鋭い初瀬の声がするも、伸ばした手は止まらない。

 ぱっ、と火が、煙が爆ぜた。

 三笠は思い切り爆風を受ける。その身を吹っ飛ばすほどの威力はないものの、先程できた火傷を悪化させるには十分だった。思わず怯んだ三笠は背を丸める。

 次に顔を上げた時には、下手人は影も形もなくなっていた。

「馬鹿っ、相手の動きをちゃんと見ろってあれほど──!」

 初瀬の指摘に三笠は拳を握りしめた。

 とにかく手を伸ばせば何かしらの動きに転じることができる、と三笠の身体には悪い癖が染みついていた。初瀬との鍛錬の中で何度指摘されたことか。それにも関わらず、三笠はいつまで経ってもその癖が抜けないでいる。

「……ごめん」

 火傷した箇所に風が当たらないよう身を屈めたまま、三笠は謝罪の言葉を口にした。そんな萎れた様子の彼に、初瀬はこれ以上文句をつける気が起きない。小さくため息をついてからしゃがみ込む。

「……いや、こっちこそ焦ってごめん。とりあえず戻って報告、と手当しないとな……」

 初瀬の言葉に三笠は頷くことしかできなかった。


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