第3話「水怪」

 車通りの多い道を抜け、閑静な住宅街へ駆け込む。

「あっちへ行ってください! こっちくんなぁ!」

 目的の場所はどこか、と辺りを見回した初瀬の耳にそんな声が飛び込んできた。必死なその声に初瀬はすぐさまつま先を向ける。件の化け物はすぐに見えた。街に張り巡らされた小堀のすぐ近く。建物の陰に潜むようにして何かがいる。

 じっと、目を凝らしてその姿を捉えようとする。

 ぴたぴたという音を立てながら、二足歩行のソレは身体から水を垂らしていた。初瀬の知らないスペクターだ。長い胴体から腕のようなものがだらんと伸びてアスファルトを撫でていた。目や鼻に当たる器官はなく、代わりに頭部には小さな窪み二つと山が一つあった。溶けて何かがむき出しになった前肢を引きずるその姿は、不気味そのものだった。

 初瀬はそれに一瞬臆しながらも得物を構える。刃を削ぎ落した刀だが、これしか扱えるものはない。気味の悪いスペクターの、その向こう側で蹲る人が一人。

(一度見たことのある相手ならともかく……あれは知らない。状況もよく分からない)

 ままならぬ現状に顔を顰めつつ初瀬は一歩踏み出した。

 即断即決、相手よりも早く初瀬は力を解放する。

 抜刀と共に熱く弾ける魔力が辺りを支配する。一介のスペクターがそれを無視できるはずもない。ソレは即座に反応を示した。

「そう、こっちを見ろ!」

 そう言いながら初瀬は容赦なく白刃を振るった。黒い水しぶきと火花が散る。痛く瞼に焼き付くその光景だけはいつもと変わらない。硬いものが刃に当たる感覚が手に伝わった。それと同時にスペクターがぐらつく。それをいいことに、初瀬は思い切り白刃を振るって怪物を薙ぐ。それなりの重さを持ったスペクターはその勢いに引きずられ壁にぶち当たった。その隙に初瀬は蹲る女性の元へ駆けつける。

「大丈夫ですか」

 そう声をかけて肩を叩くと、新品のスーツに身を包んだ彼女はびくりと身体を震わせた。

「ひっ……あ、え……?」

「あぁ、すみません。とりあえず立てます……」

 初瀬はそこで初めて女性が子供を抱えこんでいることに気が付いた。それと同時に背筋を嫌な予感が駆け抜ける。

 反射的に振り返って刀を振る。鈍い音を立ててスペクターの爪がしなる。

「あ、あ、あ!? あっちにもいます!? どどどどうしましょう!?」

 泡を食いながら女性は後ろの方を指している。それに促されて初瀬は周囲を見回す。いつの間に数を増やしたのか、スペクターが三体に増えこちらをじっと見ていた。彼らに目はないはずなのだが、視線を感じてしまう。女性が抱えている子供は極度の恐怖の中にいるのか、一切動こうとしない。

(旗色が悪いな……)

 最優先事項を脳内で定め、初瀬は一歩踏み出す。

 現状一番優先すべきはこの二人を逃がすことだ。撃破は二の次だろう。そして、それを達成するには自分も上手く逃げなければならない。三体とも動きが鈍そうなのが幸運だ。

「立ってください。わたしが上手く引き付けますから、少しでも遠くに行ってください」

「えっ、えぇっ……!?」

「行って!」

 半ば睨むようにして視線を送り、彼女を急かす。一瞬だけ怯えたような表情を見せた彼女だったが、次の瞬間には膝を立てて立ち上がろうとしていた。身構えた初瀬に警戒をしたのか、スペクターはその場から一歩も動かない。

(どこから動く……!?)

 じっと息を潜めて様子を伺う。呼吸の合間を縫って、スペクターが融け落ちた。

「……はっ!?」

 何が起きたのか理解するよりも先にようやっと立ち上がった女性の元へ駆けつける。じわり、じわりと緊張が高まっていく。それに呼応するように、融け落ちたスペクターが体積を膨らませ、裾を広げる。

「動けそうですか?」

 焦りを出さぬよう努めて冷静に女性に問いかけた。彼女は少し迷うような顔をしてから、こくこくと小さく頷いて返す。それを合図に初瀬は身構える。が、向こうのほうが上手だった。初瀬たちに動きがないと見るや否や、一斉に初瀬たちの方へ飛び掛かった。反応が一瞬遅れる。

 背後のことを考えれば回避は不可能。そうとなれば──

 初瀬は刀を背後から迫るスペクターに向かって投げつける。そしてそのまま流れるようにして右方向から迫るスペクターに鞘を突き出す。残るもう一体は。

(蹴とばせるか!?)

 一瞬の判断を経て彼女は賭けに出る。背後で誰かが動いた気配がした。おそらく彼女が指示通り動いたのだろう。

「しまっ、た!」

 初瀬の繰り出した上段蹴りは空を切る。スペクターは初瀬の予想を裏切り、その形を崩して地に裾を広げた。初瀬は回避行動をとる間もなく足元をすくわれる。やらかした、そう思った瞬間待っていた言葉がその場を駆けた。

「伏せて!」

 咄嗟に受け身をとったその直後、ほの暗い路地を何条もの流星が走る。泥状のスペクターが変質していくのを肌で感じた。ゴムが焼けたときのような異臭が鼻をつく。光の発生源、路地の入口の方を釣られるように見てみれば人影が一つ。

「遅い!」

 それを認めるや否や初瀬は文句を投げつけた。

「ごめん!」

 謝罪の言葉とともにもう一発、と言わんばかりに再び流星が放たれる。追撃は成功しスペクターたちはそれ以上動くことはなかった。

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