第2話「初瀬の新しい日常」

 時刻は午前六時四十五分。

 アラームをセットした時間よりも十五分早い。霞がかった思考のまま、布団の上で少しだけ時間を潰す。眠れなかった十五分を取り戻したい。大きく伸びをした後に、寝返りを打とうとして腹の上に猫がいることに気が付いた。

「なんだあんたか……」

 妙に圧迫感のある夢をみた。その原因が大きな顔をして、今も初瀬の腹の上で寝息を立てている。それに若干げんなりとしつつも初瀬は身を起こした。

 いつの間にこんなところで寝るようになったのか、と思いながらその図体を両手で退かそうとする。いつの間に家に住み着いていた猫だ。母が餌でもやったのだろうか。面倒なことになった、と思いつつも何故か面倒を見ている。

 猫とはいえ、五キロ近い巨体だ。力の入っていない猫の身体はぐでんぐでんと曲がりに曲がる。四肢をこぼさないように抱え直し敷布団の上に据えておく。少し考えた後に初瀬は掛布団を被せておいた。何となくそのまま放っておくのも申し訳ない気がしたからである。すると黒い生き物は少しうっとおしそうに目を細めて初瀬に視線を返した。

 こんな少しばかりの苦労をしながら初瀬はやっと起床した。

 冷たい床に降り顔を洗いに洗面台へ向かう。最初こそはご丁寧にスリッパを使っていたが、今では玄関で埃を被っている。来客用にでもすればいい、と思っていた。そんな機会は天変地異でも起きない限り無いか、と初瀬は呟く。

 ぬるま湯で顔を洗い、タオルで雑に水気を拭きとる。のっそりと見上げた鏡には少しくたびれた女の顔が映っていた。伸ばしっぱなしの黒髪を摘まんでその先を見る。まだそこまで痛んではいない。ならばまだ、散髪に行かなくてもいいかなどと考える。もう一度鏡を見上げれば眠たげな浅縹色の瞳を目が合った。

 湧いて出た不安をかき消すように頭を軽く振る。適当にスキンケアをしてすぐに洗面所を出た。廊下を歩きながら適当に髪を括って、台所で水を汲んで少し口に含む。脱水と冷えから来る頭痛が少しだけあった。昨年末に大寒波が到来し、今年に入ってからも度々寒波が列島を襲った。その影響で四月になった今も朝の冷えが身に染みる。堀端には六分咲きの桜が群れていた。

 世間では魔術師の公務員化反対だとか、社会参画がどうとかを議論し合っているらしい。初瀬が通勤に使う道には今年に入ってから毎週と言っていいほど、同じ時間帯、同じ場所にデモ隊がいる。その横を何食わぬ顔で素通りするのにも慣れた。彼女が魔術師と組んで仕事をしているなんて、その場の誰一人として知らないはずなのに。

 相変わらず騒がしい警察署内を通り抜けて、一番端の端、やっと元倉庫になったその部屋のドアを開ける。

「……ああ、なんだ初瀬か」

「おはようございます。何かありましたか?」

 弾かれたように顔を上げた浦郷うらさとに軽く頭を下げる。

「いや、普通に資料に夢中になっていたんだ。おはよう」

 浦郷蒼は資料を整えながら首を横に振ってみせた。特に何事も無かったと知った初瀬はそのまま自分の席へ行こうとする。が、初瀬の顔を見て思い出したと言わんばかりに手を打った。それに思わず足を止めて彼の方を見る。

「そういえば……お前の兄の検死結果が出た。転華病てんげびょう、とのことだったが……詳細説明が難しい、と潮田旭が言っていてな」

「転華病、ですか……」

 初瀬は初めて聞く単語に瞬きをする。

「俺もそれについては分からんから、今日の昼にでも当人に訊きに行くといい」

「いいんですか?」

「必要なことだろう。俺は別に悪いことだとは思わん」

 そう言ってから浦郷は手に持っていた資料を渡す。初瀬はそれを受け取って自分の席に着いた。この零課に着任してからすぐのはずだが、妙にこの場所がなじむ。それがいいことなのか悪いことなのか、考えるのはもう止めた。

 資料に目を通そう、そう初瀬が思った瞬間に電話が鳴った。初瀬が反応するより早く、浦郷が受話器を掻っ攫って対応をする。

「……はい、はい。分かりました。おい、来て早々に悪いがちょっと出てきてくれないか」

「え、分かりました。どこですか?」

 初瀬の素早い返事に浦郷は遅れずに付箋を差し出す。

「ここだ。……気の毒なことに通報者はウチの新人だな」

 浦郷の言葉に初瀬は苦笑いをして頷いた。気の毒どころか早く行かなければ命の危険もある。零課に入れた人物とはいえ、人を守りながら自分を守るのは大変だろう。

「至急向かってくれ。必要があれば戦闘をしても構わん。責任は俺が持つ」

「分かりました。すぐ行きます」

 初瀬は資料を引き出しに入れて装備品を手に取る。

「ああ、そうだ。お前の相方は今朝解放されたからもう使っていいぞ。というか連れて行け」

 出て行こうとした初瀬の背に浦郷がこう付け加えた。

「了解です」

 走りながら携帯を手に取り、連絡をしてからトップスピードに乗る。浦郷の言葉がどこか引っかかったが、それはすぐに流れ続ける思考の中に掻き消えてしまった。

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