第三章-5 噂

いつもだったらわたしはおひるねの時間だった。でもその日はいつもじゃなかったの。

お母さんがお家にいないから、わたし、ずっとお部屋で眠ってた。だからおひるねはいらなかったの。ブランも一緒だったわ。いつもだったらブランはお母さんと一緒だった。

わたしたちは山小屋にいた時みたいにふたりで眠った。




冷たい風が窓からやって来るのを感じた気がしたわ。鳥さんの声も、葉っぱが手を振る音も、木の匂いも、土の匂いも、全部、全部、あの頃と同じ気がした。

わたし、帰ってきたんだわ。ううん、違う。あの町での時間は全部夢だったのよ。

そう思いながら目を開いたわ。


半分だけ開いた窓にはカーテンがひらひらしていた。土じゃなくて湿った泥の匂いが壁には塗られていた。

ここは山じゃない。わたしは一瞬で今に戻された。




お部屋にいたのはわたしとナターシャだけだったの。起きた時、目が合ったわ。それから、眠る前には確かに一緒だったブランを探した。

ベッドの上にも床の上にもいない。キョロキョロ探してたら、ナターシャが扉の方を向いてるの。

扉は開いてた。ブランがひとりで勝手に開けて出ていっちゃったのね。よくあることよ。ブランは大きい犬だから、足で立てばわたしの背を抜いたの。手をひっかけて扉を開けるわ。カギは持ってないから、どうしても開かせたくない時だけわたしたちはお道具を使うの。

その日のブランはお外の気分だったのかもしれないわね。いいのよ、そういう時もあるんだから。でもどこに行くのか言ってからにしてほしいわ。わたし、心配しちゃうんだから。

そんなこと一度もなかったのよ。だからわたしはもっと心配になった。

そしたらね、窓の外からブランの声が聴こえたの。ここにいるよ、じゃないわ。ここに来るなって怒ってた。

ブランは誰かがこの家に来るのをイヤがってた。入ってくるなって。


誰が? そういえばお父さんもそうだった。誰かとお母さんが会わないようにブランにお願いしてた。

誰が来るの? 誰が、誰に会いに来るの?


次に見た時、ナターシャは窓の外を見てた。誰かがいるんだ。誰かが来ちゃったから、ブランが怒ってるんだ。

わたし、ナターシャの目の先を見たわ。窓のガラス越しに。わたしがこのお部屋にいるって、誰かに知られちゃダメな気がしたから。


ナターシャの見ていたのは裏庭だった。

裏庭の木がたくさんある間に、お父さんがいた。隣にはブランも。

その側にいたのは、この家に来たのは、あの人だった。


お父さんとブランは何かを叫んでた。来るな、来るな。それと、エヴァ、マリア、アリスの名前が。













わたしは窓を閉めた。カギもかけた。最後に、ゆっくりとカーテンを引いた。


ナターシャはもう外を見ていなかった。







わたし、あの人がキライよ。

何がキライなのか、わたし、わかったわ。

あの人、自分のお名前を隠すのよ。


「俺、アリスのパパなんだ」


わたしは知りたい。

あなたはだあれ?


「俺? 名前なんて知りたいの?」


お名前を言わない人は大キライ。わたしはあなたが誰か訊いてるのに、それに答えないのはとっても失礼よ。


わたし、知ってるわ。あの人のお名前。

あの人はアダムさん。神様がお作りになられた最初のお人形と同じお名前。だけど全然違うわ。

あの人はアダムにふさわしくない。神様の楽園にいちゃいけない人。

あの人はわたしのお母さんを知っているのかな。アダムとエヴァは楽園で一緒にいたお人形。

じゃあ、お母さんとアリスちゃんのお父さんはどうなんだろう。お母さんはあの人のことを知っているのかな。




天の神様。どうかお母さんをお守りください。

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