その時。不意に異臭が鼻を突いた。見ると、両手の小指がわの側面が白っぽくなっていた。

 壁を叩いた時に白い塗料がついたのかもしれない。おそるおそる右手のにおいを嗅いでみると、酸っぱいような甘たるいような、有機的なにおいがつんと鼻腔を刺激した。

(穢れてしまった)

 嫌悪感が込み上げ、服の裾でぬぐう。皮膚がずるりと剥けた。赤黒く柔らかそうな肉から、血混じりの白濁した膿がにじみ出てきた。異様に汚らしく思え、さらに服でごしごしとぬぐう。手は粘土のように容易に削れて、小指と掌の五分の一ほどが無くなってしまった。

 だがこれであのくさい塗料もとれた。安堵しながら再び右手に目を馳せると、白い汚れは、手のひらの半分、そして薬指と中指にまで広がっていた。そこで俺は、この白いものが塗料でなく、肌自体が変色しているのだと気づいた。しかも、皮膚の上を網目を描くようにじわじわと広り、すでに手首をこえかけていた。

 呆気に取られているうちに浸食は進み、右手の指はすべて白に侵されていった。ふやけ、膨れ上がり、けて四本とも一緒くたになってしまった。指だけでなく、手の平、そして手の甲もぷっくりと膨れ、今にも弾けそうだった。そのまろやかな白さは、昔、縁日で買ってもらった飴細工を思い起こさせた。なつかしい――胸に幸福に似た安堵が拡がった。いろいろなことを忘れてしまった中で、ひとつでも覚えているものがあったのだ。

 それにしても、俺はいつの間に大人になったのだろう。どこもかしこも太く硬く節くれだって、肌の色だって汚ならしくくすんでいる。

 だがこの右手だけは、まろく、輝くばかりに白い。

 俺はふっくりと膨れた右手に見とれた。白い網目はすでに肘あたりまで広がっていた。ぱんぱんに張りつめ、薄膜のようになった皮膚の下に、青紫の血管が透けて見えている。皮膚の上下を走る線と色の交差が奇妙な立体感を持って眼前に差し迫ってくるようだった。

 世界が揺らぐような感覚に、知らず呼吸は速くなる。

 前後不覚に陥りそうになり、反対の左手で固くこぶしを握り締めた。そのとたん、湿った音をたてて手首から先が落ちた。わずかに遅れて左手首にはめていた腕時計が白濁した粘液を糸引かせながらずり落ち、弾力のある床で跳ねた。

 床に転がった手首から先は原型を留めぬほど白に侵されているのに、手首から上は何の影響も受けていないようだった。

 俺は生々しく晒されたその断面を見つめる。ぐずぐずに崩れた肉の中に、先が黒っぽく変色した骨が見えていた。他にもにゅるにゅるした管やら筋やらが顔を覗かせている。

 なんと汚い。右手はこんなにも綺麗であるのに。

 腕時計をはめていたせいで浸食が阻まれたのだ。堰き止めがなければ、この左手も、右手のようになれたのに。ちゃんと係員の言うことを聞いておけばよかった――俺は心底悔やんだ。

 ふいにうずきを感じて、左手から右手に視線を移した。ちょっと目を離したすきに、白い網目は二の腕を越えていた。驚くべき速さで肩、胸と、胴体じゅうに拡がってゆく。そのむず痒く、くすぐったいような感覚に、俺はいてもたってもいられなくなる。猛烈に服を脱ぎたい衝動に駆られた。だが、右手は指が無く、左手は手首から先が無い。

 白はいつのまにか左腕にまで届き、無様ぶざまに千切れた先までも包み込んでいった。

 むき出しになっていた断面の組織が瞬く間にとろけてひとつになり、つややかにぬめ光る。

 ――ああ。あんなに汚かったのに。

 白は上半身から下腹部に、そして下肢に向かっていった。とても立っていられなくて、倒れ込むように膝をつく。その衝撃に脆くなった足は溶け崩れ、柔らかく発光する床と混じり合う。部屋と自分の境がわからなくなる。

 俺はたちまち満ち足りて、えた吐息といきをぶくりと漏らした。世界の調和が美しく保たれたことに安堵する。



 しばらくすると、壁の向こうから係員の足音が近づいてくるのが聞こえてきた。俺の中に残された入院着を、回収に来たのだとわかった。


   ――了――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

箱の中の出来事 うろこ道 @urokomichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ