中編/前部


 は流れゆく雲になった。"雲"というのを水と水蒸気の塊として捉えるなら人体の殆どの部分はそんな様子だったから、そう自身を定義することにしていた。以前には彼の身体は"天井の染み"になった時もあって、その前は"化学繊維の詰まったずた袋"だったり、"内線電話"や"ギデオン協会の二ヵ国語聖書"の時もあった。目に付くもの全てを照らし合わせていって、服を選ぶみたいに似合わないモノを脱ぎ捨てていった。何せ時間はたっぷりあったし、他にやりたい事は残っていない。肝要なのはやりたい事が見当たらないだけで、しなければならない事は残っていたのだけど。

 ここが面白い所で、健やかに生きていく時にはそういう惰質が欠かせないのである。もし目を開けたまま眠ったり、心の赴くまま壁を引っかいたり、四半世紀近くを半径十数メートルの中でうろうろと徘徊しながら過ごす事が健康的に生きることなら、従ってなのだろう。と次には窓越しに高気圧の中を這って泳ぐ名も無き鳥のカタチをかたどって、彼は思った。


 ◆


 絶え間なく雲が流れていく。雲が流れていくのはクリーム色をした中空であり、それはよく見る空の青色が海の属性を反射したように(科学的には全く違うどころか因果の逆転が起こっているようなモノなのだけど、そんな所はどうでもよかった)店の中のタイルを反射している様である。室内に雲が再現されるというのは頻繁に見られる現象ではないが、全く起こりえないと否定する材料は持ち合わせていない。だからぼくは教科書的『雲』を思い浮かべてみることにして、それに失敗する。

 その日はひどい高気圧の所為せいで、雲一つない快晴だった為だ。


 雲に包まれた店内――カラオケ喫茶・レイヴン=ウッズのことだ――に入る少し前のこと。快晴の空によって、南中に差し掛かる陽を容赦なく浴びながらぼくは事務所のある雑居ビルの軒下に入った。耐震構造の「た」の字も無さそうなヒビ割れだらけのモルタルを横目に細く急勾配の階段を腿の筋肉に頼りながらなんとか踏破して見慣れた扉を開けてから、はたと気が付く。そうか、もう正午を回っていた。

 だけど来た道を引き返すのは悔しい気がしたから、薄いだろう床に足音を立てて事務所の区画を通り抜けて開けっ放しの火災用扉の奥の部屋、現在は叔父の居室として使われている隣のオフィスに入ると、鈍らで野暮ったく緑色で小さい鉄箱の扉を開けて、その中にある良く冷やされた紙パックに飛び込むように手を付けた。それが目当てだったみたいに装って、数分前の自分へ見せつけるようにグラスに注ぐ。

 そこまでしてから、ようやく異変に気が付いた。


 ひっそりと、決してソイツが「ひっそり」だなんて口にしたのではなくても、そう聴こえたのかもと推論するに十分なほどの外形が独立シンク台の隣のちょうど隙間に焼き付いたように立っている。その形状はどこかの営業熱心な中古車店が商品の見栄えの為に枯らしてしまった街路樹の途中経過の姿であって、しかもよく見ると五本の触手が細長い幹から飛び出していて、更に注意深く観察するとそれらが手足と頭に相当すると分かる。栄養失調の海鳥に似た手足を上手く畳んで、それでいて獲物を逃さぬように目だけはぬるりと眼窩を滑った。

 ぼくは大層驚いて、開けかけた唇を結んでから矢張りやめて、次に口を又開いてゆっくりとグラスを傾けてみた。ひっそりと立つ枯れ木は微動だにしない。その縁に唇を当てて濡らしてみた。痩せた海鳥は、まだ動かない。例えばピッチドロップ実験という様に長大なスケール上では動きが観測できたのかもしれないが、たった数十秒という中では判断が付かないのだろうか。

 そうしてぼくは喉を鳴らして、緩やかな傾きで液体をゆっくりと、何なら不審人物を視界から外してでもグラスを一口で飲み下した。そして相手の出方を見た。


 陰に潜む枯れ木はやはり動かなかったが、今まで微動だにしなかった訳でもないらしい。陽が少し動いたのか、光が奥の人影に当たるとその全容がしっかりと明らかになった。ソイツはこちらに片手だけ伸ばして、口端からは涎だかアスファルトピッチだかが瘤状に固まってぶら下がっているのである。

 ようやく性別の判断がついたお陰で、続いてぼくはの鳴き声について考えを深めることにした。個人的には「アァァア…」とか「ウォオン」とか、そこらの声帯持ちの人型が発するだろう呻きであってほしい所で、例えば「みゃあみゃあ」だとか「ヒュウツクツク」だとか「ネバーモア」だとか、そんなのは止めて欲しい。もごもごと突然、不審者の口元に黒い泡が立つのを見て、ぼくは耳をそばだてる。

 

 ――黄金ゴールドを見ろ、と男は繰り返しているのが分かった。


 ◆


 日々の営みというヤツを繰り返し、幾度も繰り返し、繰り返して行き着く果てには矢印の向いた白い立て札が刺さってあって、そこには太い字で『心療内科』と読めるのだろう。せめて『歯科医院』とか『ブランデンブルク門』とかであって欲しくて、『地獄』とか『天国』とは書いていて欲しくない。そのよしは、特には無い。

 ぼくは"ヨコサワクリニック/心療内科・専用駐車場"の看板を目印に大路を曲がれば、直ぐに目に入るフランチャイズの餃子店の先に目的の看板があるのが、まったく文字なんか読めもしなくても分かった。昨日も一昨日も、殆ど毎日のようにこの筋を通るのだから、覚えてしまうのも無理はない。美容院が歩道側に出してあるタオル干しの棚を避けて、床タイルが続いていく地下階段の欄干、その傍には電飾看板が佇んでいる。満を持して、"喫茶レイヴン=ウッズ"である。



 もしもし かめよ かめさんよ


 せかいのうちに おまえほど


 あゆみの ものはない



「うん。実に良いうただ」

「そうですか?」と店主。

「これほどに、世界の真理を言い当てた詩があるかい?」

 店主は「言い当ててるんですか」と鸚鵡オウム返しする。興味から聞いてみたのではなく、話しかけられたと思ったから反射的に答えてしまって、そうしたら不本意にも会話が続いてしまった時の、気怠さが乗り込んだ声だった。

「そうだよ。イソップ物語は中世イスラム世界の数学者たちにとって、実に見事な教材だったとも聞くじゃないか。これはさ、数理論理学的に考えれば、世界の終わりを定義する詩なんだよ。例えば――」と言いながら首を回して、たった今ドアの呼び鈴を(チリン、と)鳴らしたのは一体誰か、クリーム色の空を流れる雲の合間から確認した。そして子供らしく顔を曇らせる。

「――この平穏も、今終わった」


 店の中に浮かぶ雲は――その大半は叔父が一口食べるたびに一回吸うという、そんなルーティンを続けた結果である――ぼくの顔中の穴という穴で受け止められることになった。これを浴びた後には毛穴が埋まってツヤツヤに一瞬見えて、数十年後には臓器不全に悩むことになるかもしれない。ある日に、タバコの健康被害に対する反論として叔父が聖ブリジッドの祝日の例を引いてきた時に決心したのだ。もうやめなよ、なんて忠告をもうやめようと。その代わりに隣に座りながら、耳に入った事を聞いてみた。

「何が終わるって?」


「世界が終わるのさ」

「いつ?」

「それは難しい問題だな。それに他の問題もある」

「へえ、忙しいね」

「まあな」と言葉を切ると赤と緑が覗く食パンサンドを頬張り、続けた。「なぜ終わるのか、どうやって終わるのか、どの世界が終わるのか、そのいづれも分かっていないからね」次に緩く立ち上がる煙の根元にある、吸いかけのタバコを少し愉しんでから「それでまた、何しに?」と続けた。

「"何しに"って、ぼくは昼を食べに来ただけだよ」

「人の金で、だろ」

「けどぼくには、十分にその権利があると思う。だって…」

「ああはいはい。そうかもね」と叔父は軽く手を振った。

「じゃあ。同じのお願いします」

 店主マスターはちらとカウンター上のボードを覗いた。"モーニングは11時半まで"。その文章を反芻してから、自分なりのルールを設けてみた。

 "但し、注文した客が他の客の同伴者の場合には、その限りでない"


 ◆


「何が聞きたい?」

「ん?」

「聞きたいんだろ、その封筒が何かってのを」

 本日二度目の驚愕というヤツが、ぼくの首筋を走り抜けていった。走り抜けていった車両の中にはフードを被った死神や髭を生やしたローブ姿の老人に、ついさっき見た痩せた海鳥のような男も乗っていて、窓越しにこちらを覗いていた。

「なんで、いやなんでって言うか…。うん、聞きたいけど」

「じゃあまずグランド・ルールを決めよう。一つ、質問に質問で返すな。二つ、話を遮るときは、代わりにブレンドを一杯注文しろ。三つ、その分は自分で払え」

「大体わかった」

「理解する必要は無い。守ってくれさえすれば」

「いいからさ、はやく続き」

「まずソレを出して、この上に」

 ぼくは封筒を出して、机に置いた。

「封を開けて、中身を出して」

「今?」

「そうだ」

 封を開けて、中身を出した。じゃら、と四角く青い塊が先に目に入る。ぼくはそれに手を伸ばし、それよりも俊敏に別の手が塊を掻っ攫った。盗人の手の方に視線を上げると、たった数秒前に珈琲を飲み終えた客であり、同時に二枚の札を机に出して席を立とうとしている男であって、当然それは、ぼくの遠縁にあたる叔父であった。


「もう店を出るから、したがって、一切異論は受け付けない」と彼はぼくを見ずにそう言った。


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