第17話 ガキ大将③

 エレニカはライボルト区のスラムを前にして、郷愁に似た思いに浸っていた。


(あの頃と比べると綺麗になりましたね)


 彼女が知っているスラムは、どれだけ明るい日でも常に鬱屈とした暗い影に覆われた場所だった。現実の影ではなく心に根差した影だ。住民は暗闇の中を彷徨うように手探りで生きていくしかなく、生き足掻こうと無茶をした者が一人また一人と命を落としていくのが当たり前だった。


 エレニカはスラムへ堂々と足を踏み入れた。仕立ての良い使用人の制服を着こなした彼女は、明らかにスラムには似つかわしくなかった。彼女は周囲を見回し、誰か話しかけやすそうな人間を探す。やがて、路上にシーツを敷いて腰を下ろしている中年の男を目に留め、彼に話しかけた。


「すみません、少しお話できますか?」

「うん? 何だあんた」


 男は声をかけられて初めてエレニカの存在に気づいたようだった。眠たそうな眼で彼女を見ても特に反応は見せない。


「人を捜しているのですが……何分この辺りには・・・・・・詳しくなくて・・・・・・。もし御助力いただければ幸いです」


 男は思案するように頭を後ろに傾け、じろじろとエレニカを見た。関わり合いになっていいのか考えているのだと推察した彼女は、ポケットから取り出した百エル紙幣を一枚男に手渡した。

 男は微かな驚きとともに目を大きく開いたが、すぐに紙幣を受け取るとポケットに突っ込んだ。


「……誰を捜している」

「ニックと呼ばれている少年です。見た目は知りませんが恐らく十二、三歳くらいと思われます」


 エレニカが誰のことを言っているか、男にはすぐ分かった。


「ああ、ニコラスか。あいつに用があるなら間が悪かったな。昨夜からどっかに出かけて帰ってないぞ」


 エレニカは怪訝な表情を作った。


「夜に出かけた? 一体どこへ?」

「知らねえよ。あいつと親しいわけじゃないからな。ただ、仲間のガキどもも一緒だったから、あいつらで何か企んでるんじゃないのか」

「よければ、彼がどんな人柄か教えていただけませんか?」

「この辺りのガキどものリーダーだ。昔は両親と暮らしていたが、父親の方は酒に酔って喧嘩した末に死んで、母親はいつの間にか消えていた。それからは他の孤児とつるむようになって、掏摸で稼ぐようになった。大人にはあまり近づこうとしないが、ショウ・ライリーって闇医者の所にはよく通ってるそうだ。ショウは今このスラムの相談役みたいな立場で、俺らも世話になってる。あと、魔術も使えるな。風の魔術の適性を持っていて、ショウに教わったらしい」


 男はその後もいくつかニックについて話し、エレニカは礼を述べてその場を後にした。

 エレニカはそのままスラムを出ると、マルタ区の方へ歩き出した。ニックがスラムを出たなら、外で行方を突き止める手段が必要だった。彼女の頭に浮かんだのは、南国育ちの古本屋の顔だった。


 この時、エレニカはニックの行き先について、スラムでより詳しい聞き込みをすることを意図的に避けた。それが後に起きる出来事を左右する要因となった。




 《揺蕩い》を訪れたエレニカは、カウンターの奥に座っているアマリ・デイビアスを見つけた。彼女は新しく入手した稀覯本を読み耽っているところだった。


「アマリ様、御無沙汰しております」

「なんだい、エレニカが一人で来るなんて珍しいね? レイクのお使い?」


 アマリが不思議そうに言った。これまでエレニカが来店した時は常にレイクに同伴する形だった。


「いえ、本日は私個人が依頼したく参りました」


 エレニカは子供の掏摸グループに遭遇したこと、ニックと呼ばれたリーダーと思わしき少年について説明した。

 聴き終えるとアマリは納得するように頷いた。


「分かったよ。そのニコラスって子供がどこに行ったか突き止めればいいんだね」

「お願いします」

「こっちは払うもん払ってくれるなら構わないよ。ただ、一つ訊いていい?」

「何でしょう?」


 アマリは探るような視線を向けてくる。


「お前さんはニコラスを見つけた後、どうする気だい?」


 エレニカはどう答えるべきか迷ったが、素直に答えることにした。


「……正直に言えば、まだ決めかねております」


 アマリは頬杖を突き、同情するように言った。


「お前さんの気持ちは分からんでもないよ。元は孤児で、スラムで暮らしていた。レイクに拾われて今でこそ真っ当に生きているけど、昔は酷かったね」


 エレニカの脳裏に、ライボルト区のスラムで生きていた頃の記憶が蘇った。

 昼夜問わず響く怒号と悲鳴、野ざらしにされ雨に打たれる誰かの亡骸、澱んだ沼のような虚ろな目で何をするわけでもなく過ごす住民。

 アーロイが支配していた王国は弱者にとって地獄というほかなかった。罪が満ち溢れ、他者の人生を贄として栄華を極めた悪徳の場所だった。それでも弱者は地獄に住む以外の道はなかった。魔導機関時代の到来は、人々に油がなくとも絶えず輝く光を遍く与えた。しかし、その光はずっと前から暗闇が蔓延るスラムの世界を照らすことはなかった。


 エレニカもかつてその世界で生きてきた人間だった。物心がついた頃にはもうスラムで暮らしていた。彼女は両親の顔を知らない。スラムの大人たちが彼女にとって親であり友人だった。

 その頃、エレニカはアーロイほどではないが暴力に塗れた人生を送っていた。彼女はスラムの若者たちを中心に結成されたグループに所属し、用心棒の仕事や他のならず者と抗争に傭兵として雇われるなどして日銭を稼いでいた。ろくに学のない若者には力以外に持つものはなかった。エレニカもその多分に漏れず、血で血を洗うような日々を送り続けた。

 彼女にとって幸いと言ってよいかは分からないが、彼女には魔術の才能があった。気づいたのは十四歳の頃だ。ある時、用心棒として彼女らを雇った商会の経営者が才能の片鱗に気づいて指摘したのだ。当時グループのリーダーだった男は、魔術が使えるようになれば名を挙げられより稼げると考え、エレニカに魔術の勉強をするよう薦めた。スラムにはショウ・ライリーを始め何人か野良魔術師が住んでいて、いずれも住民たちから一目置かれる存在だった。彼らのようになれば食うに困ることはなく、グループもその恩恵に与れるとリーダーは考えたらしい。魔術の勉強などどうすればいいか分からない彼女は気後れしたが、思いの外順調に才能を伸ばすことができた。

 やがて、エレニカはめきめきと実力をつけ、グループ内でも高い地位に就くことになった。エレニカの名はスラムでも囁かれるようになり、強者として振る舞う彼女を慕ってグループに入る若者も増えた。それがエレニカ・ブレイズの最盛期だった。


 だが、エレニカがその生き様を誇ったことはない。所詮暴力を振るうことでしか生きられない人間は、いずれ暴力によって潰されると達観していたからだ。魔術を学ぶようになってからは、よりその思想は強まっていった。魔術の才能はどこへ行っても生きるのに困らない宝と云われているにも関わらず、彼女はスラムを離れようとしなかった。どれだけ魔術を学ぼうとも、暴力を振るうことでしか生きられない本質が変わらない限り、どこへ行こうともまた同じような生き方をするのが目に見えていたからだ。

 では、新しい生き方を模索する気があったかといえばそうではなかった。やろうと思えばあの地獄から逃れることはできただろう。だが、仲間たちは? 彼らはエレニカのように外でも生きていく力はない。待っているのは、まともな仕事にありつく前にスラムに逆戻りするか、他所のならず者の餌食となるかのいずれかだ。エレニカには彼らを見捨て、自分だけ陽の光の下へ逃げることはできなかった。


 そうして彼女は自ら未来を閉ざしたまま、スラムで生きた。自分はこのままでいいと思いながら。


 だが、そんな生き方は思わぬ形で終わりを迎えることになった。エレニカは生涯忠誠を誓うと決めた主との出逢いを忘れることはない。


(あのお方と出逢わなければ、今でもあのスラムで生きていたか、そうでなければ既に路傍の骸となっていたでしょうね)


 運命というものが本当にあるとすれば、自分にとってレイキシリス・ブラウエルとの出逢いがそれに違いないと、エレニカは思った。


「ニコラスを気にするのは、奴に同情しているから?」

「そうですね……同情、なのでしょう。先程彼についてスラムで訊きましたが、昔の私に似ていると思いました。それ以外にどんな感情があるかは、まだ自分でも判別できていませんが」


 ニックの境遇はエレニカのそれとよく似ていた。仲間を纏め上げる立場であること、魔術の才能を持つこと、仲間から慕われていること。

 エレニカは思った。あれはかつての自分を映す鏡であると。過去の己を前にして目を離せないでいるのだ。そして、自分がどうしたいのか、彼女はその答えを見つけられずにいた。


 アマリはそんなエレニカの心情を察し、諭すように言った。


「やりたいこと、やれること、やるべきことは区別するようにね。お前さんなら言わなくても分かってるだろうけど」




 同時刻、《三叉のカーマイン》の塒のビルを見張っていたホタルの元に、アーネスト・パイン二等捜査官とリーヤ・マリガン三等捜査官が現れた。


「あら、パインさんとマリガンさんではありませんか。ブランさんから応援を寄越してくれるとは聞いていましたが、貴方たちだったんですね」


 パインは肩をすくめながら言った。


「本当はもっと人を割きたかったんだが、そのカーマインって奴がまだ帝都で何もやらかしてない以上、大勢を動かすことはできないと刑事部長が言ってた。そいつ正式に手配されてる奴じゃないんだろ?」

「私の知る限りでは警察に名前を知られてはいませんね。まったく、こういう時に警察は腰が重いですよね。そんなだから私の時も取り逃がしたんですよ。レイクさんがいなかったら、私を逃がしたままだったでしょう?」

「やかましい」


 帝都警察は盗賊“影踏みのホタル”一味が帝都に潜伏している情報を掴んでいたにも関わらず、まんまと取り逃がした苦い過去があった。およそ六年前の話である。その際に事件解決に寄与したのが、長官の子息という立場から外部協力者として参加していたレイクであり、彼の働きにより帝都警察は面目を保つことができた。

 レイクに借りを作った帝都警察は、彼がホタルを協力者として引き込みたいという要望を提示した時、断りきることができなかった。長官と刑事部長のブラン・アルケインの承認もあり、最終的にホタルと司法取引をした上で彼女を釈放する判断を下したのだった。

 その後、ホタルは《甘美荘》を開業し、表向きはカフェの経営者として振りまいつつ、裏では元盗賊としての能力と人脈を活かして潜入捜査や情報提供を行うようになった。彼女は形式上は帝都警察の密偵ないし協力者という位置づけであるが、彼女自身の認識はレイクの配下である。自分を取り逃がした帝都警察への評価は低かった。

 余談であるが、ホタルを取り逃がした捜査官とはアーネスト・パインその人である。


 ホタルとパインが話していると、ビルから一人の男が出てきた。ビルに出入りしている人間は全員顔を確認し写真を撮っていたが、その男がビルから出てきたのは監視をするようになってからこれが初めてだった。恐らくこの三日間ずっとビルの中にいたのだろう。だが、ホタルが何より気になったのは、その男の顔に見覚えがあったことだ。


「あら? あの男、どこかで見たような……」


 ホタルは記憶を掘り返そうと、うんうん唸り出した。だが、彼女が思い出すより先に、パインが男の正体に気づいた。


「あいつアーロイじゃないか? ライボルト区のスラムを治めていたあの……」

「思い出しました。確かレイクさんが見せてくれた手配書の男です。スラムの犯罪組織のリーダーでしたっけ?」

「アーロイ? どんな奴です?」


 何も知らないマリガンが訊ねると、パインは呆れた顔になった。


「新人とはいえ警察官ならアーロイの名前くらい知っておけ。七年前にライボルト区のスラムを支配する犯罪組織が摘発されたことあっただろ。新聞でも騒がれてたはずだ。その組織のボスがアーロイだ。奴は手下を囮にして自分だけ逃げ延びたんだよ。帝都から出たのは分かっていたが、まさか今になってこんな所でお目にかかろうとは……」


 パインはアーロイを遠目で睨みつけた。

 アーロイの表情はどこか険しかった。歩幅も大きく、苛立っているような感情が推察できた。

 ホタルの目が細くなった。それは盗賊時代、彼女が仕事に取り掛かる時の目つきだった。

 彼女はパインとマリガンに言った。


「私はアーロイを追います。パインさんはレイクさんにこのことを至急伝えてください」




「そうですか……では、その“三叉のカーマイン”が動き出すのを待つんですね」

「ああ、今はカーマインを引っ張るだけの罪状がない。だから、奴等が計画している押し込みを実行に移したところで現行犯で捕らえるのが最適かな。何としても逃がすわけにはいかないからね」


 レイクの家の居間で、レイクはリンにカーマイン一味について説明していた。帝都警察が大きく人員を割けない以上、いざという時に代わりとなる戦力が必要だった。そこでレイクがリンに打診したところ、彼女は快く引き受けた。


「今回は特に失敗は赦されない。敵の一味は結構な人数がいると報告が上がっているし、乱戦になる前に過剰な戦力を投入してでも速やかに制圧するのが一番だ」


 レイクが語気を僅かに強めたことに、リンは気づいた。


「妙に気合が入っていますね。何かあったんですか?」


 リンが訊ねると、レイクは厳しい表情を浮かべた。


「実は見張りをしていたパイン捜査官から気になる情報が入ったんだ。一味が拠点にしているビルに出入りしている奴の顔を確認してたらしいんだけど、その中に俺が昔逃がした奴の顔があったんだ。アーロイっていうスラムの組織を率いていた奴なんだけど」

「スラムというとライボルト区の?」

「そう、ライボルト区の端にあるやつ」


 レイクは肯定を返した。


「七年くらい前にあそこで大捕物があったのは知ってる? その時に摘発されたのがアーロイの組織なんだよ。詳細は伏せるけど、貴族相手に脅迫をして大金を巻き上げていたんだ。その件を秘密裏に解決してほしいって依頼が知人経由で俺に舞い込んできて、それが切っ掛けで俺も関わることになった」

「七年前というと、まだ探偵を始める前ですよね」

「ああ、人脈作りで忙しかった頃だね。まあ、はっきり看板を掲げていなかっただけで、似たようなことはしてたんだけど。ともかく、俺は父さんとブランにも話を通した上で策を練って、アーロイを罠に嵌めた。言い逃れできない状況を作って、一気に制圧することにしたんだ。ところが悪運の強い奴でね、アーロイだけは逃げおおせたんだ」

「レイクさんに不手際があったとは、俄かには信じられませんね」


 レイクは目を逸らした。恥ずかしそうな、言いにくそうな、そんな感情が読み取れる顔だった。


「実は間の悪いことに、連中のアジトに踏み込んだのと同時に、アーロイの敵対勢力が攻めてきたんだ。“火焔蝶”っていうスラムで名の知れた野良魔術師を筆頭とする集団だった。数日前にアーロイの手下に仲間を殺されていて、その仇討ちが目的だったんだ。そいつらと警察とアーロイの一味が入り乱れたせいで、アーロイを追うのに手が回らなくてね……俺もその“火焔蝶”と戦う羽目になって、足止め食らっちゃったし」

「その“火焔蝶”というのは強かったんですか?」

「うん、強かったよ」


 レイクは懐かしそうな目で天井を見上げた。


「名前が示す通り火属性の魔術に長けた魔術師で、正真正銘の天才といえる人間だった。当時の俺は十一歳だったとはいえ、侯爵家の家庭教師の下で高等教育を受けた身だった。その俺に真っ向から立ち向かえるほど才能に溢れていたよ。ちゃんとした教師がつけば大成できたに違いない」


 スラムの人間に対しては高すぎるといっていい評価を下す様に、リンは驚いた。


(レイクさんがこれほど誰かを称賛したのは初めて見ました)


 アマリ、ホタル、ルカなど、レイクの友人知人には優れた能力を持つ人間が多い。付き合いの浅いリンでも、彼らが何らかの分野で彼女やレイクより秀でていることを知っている。しかし、今レイクが“火焔蝶”に下した評価は彼らへのそれを大きく超えているように思えた。


「まあ……そういうわけでアーロイは逃がしてしまって、奴の一味と“火焔蝶”の一味はその場で逮捕した。いやあ、あれは俺の人生の中でも屈指の騒動だったよ」

「成程、そういうことなら今回は絶対にアーロイを捕まえねばなりませんね」

「ああ、今度は絶対に逃がさない。奴も年貢の納め時だ」


 レイクの目は、獲物を狙う猛獣のように光っていた。




 アーロイはビルを出た後、一つの方角を目指してぐんぐんと歩いていった。その後方を影に潜りながらホタルは一定の距離を空けて尾行する。

 やがて、周囲の景色が寂れた雰囲気のものへと変わっていく。建物には落書きが描かれ、道のあちこちにゴミが散乱するのが見受けられるようになった。


 ホタルはそこがどこなのかすぐに分かった。


(ここは以前アーロイがいたスラム……何の用で来たんでしょう?)


 アーロイは我が家に帰ってきたように堂々と足取りで路地へと入っていく。途中何人かの住民が彼とすれ違い、怪訝な顔をした。アーロイは帽子と眼鏡で人相を誤魔化していたため、彼がかつて支配者だった男であるとは誰も気づけなかった。ただ、彼が纏う空気が堅気ではないと雄弁に語っていたため、不必要に絡もうとしなかった。


 アーロイはある建物へと入っていった。《ライリー医院》だった。


「おい、今日は休診日だ。帰ってくれ」


 奥の部屋で薬品棚のチェックをしていたショウ・ライリーは、背中を向けたまま訪問者へ向けてそう言った。


「馴染みの顔に対してつれねえなショウ」


 その声を聞いた瞬間、ショウは首が千切れんばかりの勢いで振り向いた。何年も経過していようと、その声を忘れたことは一度もなかった、


「アーロイ……! お前どうしてここに……」

「いやなに、ちょいと用があってな。邪魔するぜ」


 ショウの質問は“行方を眩ませていたのに何故今になって戻ってきたのか”という意味だったが、アーロイは野暮用があって来た程度の口振りだ。まるで今でも自分がこの一画を統べているような不遜な態度だった。


「……何の用だ。ろくでもない仕事の片棒担がせようって気か?」


 ショウは必死に頭を回転させながら、警戒心を最大限まで引き上げて訊いた。

 だが、アーロイは鼻で笑うだけだった。


「はっ、何かあってもお前みたいな頭でっかちには頼まねえよ。今日は人を捜してここまで来たんだ。このスラムにガキの掏摸がいないか? 金髪のガキで、ひょっとしたら風属性の魔術が使えるかもしれない奴だ」


 アーロイが述べた特徴は、ショウがよく知る少年のものと一致していた。


(ニックか……)


 ショウの頭に浮かんだことは二つ。一つは、ニックがまたも掏摸でトラブルを引き起こしたことへの怒り。もう一つは、よりによってアーロイに目をつけられたことへの危機感だった。


 僅かな時間思考した後、ショウは素っ気ない調子で答えた。


「ガキなんて何人もいるんだ。金髪くらいじゃ分からん」


 しかし、ショウの性格を知っているアーロイは、彼が嘘をついているとすぐに看破した。アーロイは懐からナイフを取り出すと、近くにあった木製の机の上に突き立てた。


「いいか、返事には気をつけろよ。つまらねえ隠し事するならタダじゃ済まねえってことは、俺を知ってるお前ならよく分かってんだろ。そのガキはな、昨日俺の恩人の大事な物を掏りやがったんだ。だから、なんとしてでもそれを取り返さなきゃならねえ」


 昨日という単語から、ショウはすぐにニックが持ってきた手順書に思い至った。


(あの紙……まさかこいつの仲間から掏ったのか?)


 馬鹿な真似を、とショウは心の中で悪態を吐いた。その間にも、アーロイは話し続ける。


「念のために言っておくが、逆らおうなんて馬鹿なことは考えるな。今この場所がどうなってるかは大体知ってるんだ。俺がいなくなってから随分平和に暮らしてたらしいじゃねえか。少しばかり腹も立ったが、“火焔蝶”がのさばってないだけマシだな。あいつが俺のシマを横取りしてたら我慢できなかったところだ。だが、あいつがいないなら何も怖いことはねえ」


 アーロイはゆらゆらと肩を揺らしながらショウの前へ歩み寄ると、胸倉をぐいと掴んだ。


「要求はたった一つだ。掏摸のガキを捕まえてこっちに引き渡せ。お前が言うことを聞いてくれれば、俺も余計なことはしないで済む」


 ショウは逡巡したが、小さく溜息を吐くと口を開いた。


「……昨日の夜からいない。出かけてから戻ってないんだ。あいつの仲間も一緒にいなくなった。多分行き先を知っている奴はいないと思う」

「昨日の夜? てことはあの後に……おい、そのガキは何か持ってなかったか?」

「確か夕方帰ってきた時に紙切れみたいな物を持っていたな。内容は知らないが、それに目を通していたのは見ている」


 ショウは最低限の事実に最低限の嘘を織り交ぜて伝えることにした。アーロイは勘は鋭いが、その精度には粗があった。彼は威圧するような目でショウを睨んだが、やがて胸倉を掴んでいた手を離した。


「そうか、ありがとよ。正直に話してくれて。お陰で古い友人を殺さずに済んだぜ。それじゃあ俺はもう行く」


 アーロイはそう言い残し、医院を出ていった。彼の足音が遠ざかるのを確認してから、ショウは椅子にどかっと音を立てて座ると、頭を抱えた。


(あの馬鹿……一体何をやらかしたんだ?)


 彼の頭には昨夜逢った時のニックの顔が浮かんだ。彼があの手順書をアーロイの仲間から掏り取ったのは確かだ。そして、結界の解除手順などという決して外部に流出してはいけない内容である以上、真っ当な目的で記されたものではない。もし、ショウが手順書の内容を知っていると答えていれば、既に彼の命はなかっただろう。そういった意味で、彼は紙一重で危機を切り抜けたといえた。

 ショウは考える。このまま放置すれば、いずれニックはアーロイに発見されるだろう。その際にどんな仕打ちを受けるのか考えるまでもない。今からアーロイより先にニックの居場所を突き止めて、このことを知らせられるだろうか? だが、どうやって捜せばいい?


 悶々とするショウは、突然誰かが部屋に入ってきたような気配を感じた。彼は顔を上げ、部屋の入口に立つ一人の女の姿を見た。


「あの男が手を出すようであれば介入するつもりでしたが、大事に至らなくて良かったです」


 ホタル・ミスミはそう言って部屋の中へ入ってくると、ショウに微笑みかけた。


「勝手に盗み聞きして大変申し訳ありませんが、今の話をもう少し詳しくお聞かせ願えませんか?」





「何だって、掏摸の子供?」

『はい、それがどうかしましたか?』


 ホタルから電話で新たに判明した事実を報告されたレイクは、エレニカの様子を窺った。彼女は無言で頷き、話を続けてほしいと意思表示をした。


「……ひょっとしてその子供の名前はニックというんじゃない?」

『そうです。本名はニコラスというそうですが……知ってるんですか?』

「実はエレニカがそのニックの仲間に財布を掏られそうになってね。気になったからスラムまで捜しに行ったけど、昨夜スラムから離れたと知ってアマリに調査を頼んでるんだ」

『成程……居所を突き止めたらこちらにも教えていただけませんか?』

「それは……」


 レイクはエレニカへ気遣うような視線を向けた。エレニカは考える素振りを見せる。


「私は構いません。ただ、彼の元へ行くなら私も同行させてください」


 エレニカは断固とした意思を持って言った。レイクは彼女の心情を探るかのような目を向け、やがて電話の向こうのホタルへ了承を伝えた。


 電話を切ると、レイクは悩ましげな表情を見せる。


(掏摸のグループにカーマインの盗賊団。妙な成り行きになってきたな)




 カーマインはアーロイからの報告に、眉を寄せた。


「スラムから消えた?」

「ええ、手順書を持っていたのは確かなようですが、その後の足取りはさっぱりです」


 顎を撫でながらカーマインは考えた。アーロイとレリアは彼が言葉を発するのを待った。

 やがて、カーマインは口を開いた。


「……なあ、そのガキどもはひょっとして俺らの計画を横取りする気じゃないか?」


 何人かの手下が息を呑んだ。


「まさか、自分たちで忍び込もうっていうの?」

「ニックってガキは魔術が使えるんだろう。なら手順書に従って解除を行うこともできるはずだ」


 レリアが声を上げると、カーマインは己の見解を述べた。アーロイが首を縦に振った。


「俺も同意見です。掏ったその日の夜に仲間と一緒に消えたってのが臭い。まず間違いないでしょう」

「スラムを離れたのは万が一俺らが追跡してきた場合の備えてか? あるいはターゲットの家の下見も兼ねて、近場で潜伏できそうな場所を探そうとしたか」

「それならターゲットの家があるリヴェストア区を捜してみましょう。ガキだけで行動してるなら目立つでしょう。何人か連れてちょいと今から行ってみます。ターゲットの家を下見する可能性があるなら、そっちにも張っておきましょう」

「分かった、そうしてくれ」


 カーマインが数名の手下に視線を寄越すと、彼らは頷いてアーロイについていくようにして部屋を出ていった。

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