南しらのお第三公園

クニシマ

◆◇◆

 夕飯時、祖母から髭を剃るように言われた。明日から高校生になるのだから、みっともない顔でいてはいけないということだった。口の周りの毛が産毛とは呼べないほど濃くなってきているのは自分でもわかっているけれど、ぼくは髭の剃り方をよく知らなかった。祖父に教えてもらおうかと思ったものの、ぼけが始まりかけている祖父とは近頃まともな会話ができていない。剃刀を借りてもいいかどうかだけ尋ねた。低く唸るような、意味のない声が返ってきた。

 風呂場で体を洗ったあと、祖父の髭のかけらが詰まったままになっている刃を肌に滑らせた。洗面所で毎朝のように髭を剃っている祖父の姿を思い返し、できる限りその真似をしてみたのだった。あまりうまくはいかなかった。顎にあった小さなにきびが潰れた。唇の端に小さな傷がついて、血の味がした。

 風呂から上がると、居間にいた祖母がぼくの顔を見てかすかにため息をついた。ぼくは台所で夕飯の片付けをしている母からコップ一杯の水をもらって飲み干し、自分の部屋に入った。

 父がいたなら、と思った。小学校に上がる前は家に父がいた。幼い頃の不確かな記憶ではあるけれど、父が無精髭を生やしているところは見たことがない。父がいたなら、正しい髭の剃り方も教えてくれただろう。父は優しかった。大好きな父だった。いつの間にかいなくなっていた。父がいた頃のことはよく覚えているような気がする。反対に、小学校に通い始めてからの記憶はどうしてか不鮮明なことのほうが多い。変わり映えのしない単調な日々を送っていたせいだろう。ひとつ、強烈に覚えていることがあるけれど、決していい思い出ではない。

 十歳になる頃、友達のいないぼくは毎日放課後にひとりで公園へ行っていた。学校からまっすぐ家に帰ると、友達と遊びに行ってきなさいと祖母に言われるからだった。その公園は学校からやや離れていたから、同じ学校の生徒がそこへ来ることはめったになかった。遊具が少なくて近くにコンビニがあるためか、遊ぶ子供よりもベンチに座っている大人のほうが多かった。ひとり、毎日同じベンチの同じところに座って動かないおじさんがいた。伸びきった髪の毛と髭がその顔を覆い隠していて、眠っているのか起きているのかいつもわからなかった。

 大抵の場合、ぼくは空が赤くなってきたら家路につくようにしていたけれど、ある日なんだかいやになってしまって、日がすっかり沈んでからもブランコに座ってぼうっとしていたのだった。季節は冬になりかかっていたと思う。時折吹く風が冷たくて、公園の中にはぼくとベンチに座るおじさんしかいなかった。そのうちにぼくはどうしようもなく悲しくなって泣き出してしまった。しばらく声を押し殺して泣いていた。溢れてはすぐに熱を失う涙を何度か手の甲で拭ったときだった。ふと、霞む視界の中で、ベンチで動かないはずのおじさんがぼくのほうへ近寄ってきているのが見えた。ぼくは怖くて、急いでブランコから降り、公園を出ようと駆け出した。そして、入口のあたりで後ろを振り向こうとしたとき、ちょうど公園に入ってきた数人の集団とぶつかった。

 そのときのぼくにはそれが途方もなく大きくて恐ろしい相手のように見えたけれど、今になって考えてみれば多分あれは高校生か、下手したら中学生くらいだったのだろうと思う。ほとんど全員が派手に髪を染め、耳や鼻にピアスを開けていた。彼らはうるさい声で何かを言った。それから、ひときわ体の大きな男が強い力でぼくの肩を掴み、勢いよく拳を振り上げてみせた。ぼくはぎゅっと目をつぶった。けれども、それとほとんど同時に、誰かがぼくを強い力で抱きしめたのだった。驚いてまぶたを開けると、あのおじさんがぼくを庇っていた。

 不良たちの興味はすぐにおじさんへと移ったようで、ひとりが笑いながらおじさんの胸ぐらを掴んでその腹を思いきり殴ったのを皮切りに、全員がいかにも楽しげに拳を振るい始めた。おじさんがまるで抵抗せずあっという間に地面へ転がると、その顔や腹に次々と蹴りが入った。しばらくそれが続いたけれど、おじさんは大して反応を見せなかった。苛立ったらしい誰かが舌打ちをしておじさんの頭を鷲掴みにし、近くの花壇の縁に強く打ちつけた。鈍く短い音がした。

 公園の入口横に立つ古い誘蛾灯がふいに明滅し、おじさんの頭から流れ出した大量の血が溜まる地面をくっきりと照らした。不良たちは笑うのをやめ、小さく何かを言い合いながら足早に公園を出ていった。ぼくはおじさんに駆け寄り、無理やり抱き起こすようにしてその頭を抱え、顔を覗き込んだ。髪の毛と髭の隙間から見える肌はすっかり色を失っていた。ぼくはそれをずっと見ていた。涙はもう乾いていた。

 部屋のドアを叩く音が聞こえて、ぼくは我に返った。ドアを開けると母が立っていて、早く明日の準備をして寝なさいと言った。ぼくはおやすみと応えて明かりを消し、布団に入った。居間から、掃除機をかける大きな音と、うるさいと言って祖父を怒る祖母の声が聞こえた。ぼくはじっと目を閉じていた。

 掃除機のウーン、ウーンという音が、次第にバイクか何かのエンジン音に変わって、そして遠ざかっていった。ぼくは薄暗い公衆便所の手洗い場の鏡の前に立っていて、必死になって剃刀を使っていた。いくら剃ってもなぜだか剃れない髭があって、どんどん肌が痛み出すのだった。しばらく経ってから諦めて外へ出た。そこは夜の公園だった。入口の近く、誘蛾灯の光の下で、寄り添ってうずくまるふたつの人影が見えた。幼いぼくとおじさんだとすぐにわかった。ぼくは剃刀を持ったままふらふらとそこへ近づいていった。そうして、幼いぼくと一緒になっておじさんの顔を見つめた。空気は冷たく、とても静かだった。この顔を覆う髭をすっかり剃って、もしも父の顔が出てきたなら、と思った。剃刀を持った手はうまく動かなかった。唇の端の小さな傷が、ぴりぴりと痛んだ。

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