第30話 日記


 二筋の足跡。

 その跡を残したのは、小さな足の持ち主のようだ。子供の靴跡、状態は良好で、靴底の模様まで読み取れる。長谷川が彼の背中越しに痕跡を眺め始めた。


「この足跡がつけられたのは、雪が降りやむ少し前だ。自販機でココアを買った時点で、かなりまばらだったから、そこらへんだろう」


 足跡には、模様が判別できるほど、うっすら積雪がある。そのつもり具合からの、推察だ。


「買いに出る前に、やんでた時間があった。十時くらいだったかな。その前は本降りだったから、十時以降だな」


 彼は、その時間、窓の外を眺めつつ、妹を想っていた。一年前に死んだこと。あの日も、こんな雪だったこと。


「この足跡が姉妹だとすると、時間的に、いろいろ符号がつく。この足跡も丁度、トーチカへ向かっているようだしな」


 長谷川は、淡々と検分を続けた。耳元でしゃべられるとくすぐったく、黒井はポケットでこぶしを揉んだ。吐息が視界左端にちらつき、温度が耳に伝わる。


「二人分の足跡だ。それぞれ、靴跡に特徴がある」


 一方は、靴裏が縦のギザギザで、片方は横のジグザグだ。その二列の押印を、目線でたどると、途中の特徴のある凹みが目に入る。それは行列にある、長方形の陥没だった。

 黒井はさくっと四角の辺に手を刺し込む。引き抜くと、黒色の手帳である。水分を吸って、ふやけている。表面の結晶を、手でぱっぱと払った。


「この靴跡の主だろう。どれ、開いてみろ」


 長谷川の言うとおりだ。近くに足跡は二つしかないため、二人のうち、どちらかのもので間違いない。靴跡に重なれど、踏まれた痕跡はないので、元から落ちていたわけでもない。縦のジグザグの上だから、その人の持ち物か。


「勝手に見ていいのか」

「いつの時代も日記とは、勝手に読むものだろう。問題の人物の持ち物なら、目的地や、そこを訪れた理由がわかるかもしれない」


 彼女に促されるまま、ページをはぐる。


「『この手帳を勝手に読むなど、言語道断です。私は断固非難します。いかなる理由でも、無断閲覧を禁じます。ただし、 ”私の双子の妹、、、、” は例外です。もしそれで、私達のプライバシーが白日の下に晒されるなら、責任重大です。これを読んでいるものは、直ちに日記を返しなさい』」


 という内容。子供にしては丁寧な文字だ。そのちぐはぐな大きさから、かろうじて幼さが読み取れる。


「双子の妹、といっているなら、奴の姉で間違いないな。よし、次のページだ」


 長谷川は、他人の都合などどこ吹くかぜ、といった態度だ。哀れな子供である。私有地かもしれない土地に平気で立ち入る大人たちに、はったりは無効なのだ。


「『十二月二十四日。額に模様を彫ってもらった。これは選ばれたものの証だ。もうすぐ、すべてが達成される。明日がその日だ。これは内緒なのだけど、妹とは、お別れしなければならない。特別な日なので、お気に入りのシューズを履こうと思う。水色のパステルの靴』。なんの話だ」


 事情を知らないので、一つ一つの文章が独立して感じる。


「ちょっと待て、この日記は十二月二十四日、つまり昨日の日記だ」


 ぱらぱらとめくると、手帳は三枚目までしか記帳されていない。日焼けしていない紙の白さからも新品と知れる。


「手掛かりはそれだけか。一体、なぜ、双子は山に向かったんだろう」


 黒井はつぶやいた。考えてみれば、こんな寒い日に、こんな場所に、少女がいるというのは奇妙だ。その答えに彼自身が答えを出す。


「違う。誘拐されたんだ。それで、聖域を抜け出そうとしていたんじゃないか」


 そして、彼は三枚目を開いた。それは最後のページで、残りは雪原のように白い荒野が広がっているのみ。引き続き、彼が内容を読み上げる。


「『十二月二十五日、クリスマス』。待てよ、今日はホワイトクリスマスだ」


 少女が殺されるなんて、今日みたいな日には、絶対にあってはならない。これから、その子は、かすり傷もなく救われるだろう。その救いこそが、妹にとって、当人にとって、そして黒井にとって、最高のクリスマスプレゼントとなる。彼は、彼女の生存を固く確信した。聖夜の奇跡を信じた。


「ハッピークリスマス」


 長谷川の囁きで、少し陽気な空気が戻ってくる。


「ハッピークリスマス。それで、最後のページには『妹に呼び出された。目的地へ向かう』と短くある。この手帳は備忘録も兼ねていたんじゃないか」


 姉がなぜトーチカを訪れたか、を知ったところで、二人は二組の人跡の追跡を再開した。まだ続く雪の大地。平行線は、しっかりした足取りで、ある場所を目指している。ぐんぐん伸びる双直線。すると、ある場所で逆さの足跡が合流していた。


「黒井」

「ああ、そうだな。俺たちは、気楽に考えすぎていたらしい。あの子の話したことは本当みたいだな」


 それは、血の足跡。真っ白な雪と混ざってピンクに見える。かき氷のイチゴ味のシロップだ。それがなんだか、作り物じみていた。でも、紛れもなく本物である。


「まだ酸化していない。最近のだ」


 彼女の言葉で、黒井は周囲の警戒を強めた。転々とする木立の陰に、そのソク跡の主が潜んでいそうな気配がして仕方なかった。彼の裏で、長谷川はじっと、小さな血だまりを観察している。


「この形。もともと追っていた二つの足跡のうち、片方と一致する」


 滑り止めが靴を横断する。


「この森のどこかで殺された妹のものか。旅館の子供さ。ほら、幽霊だろ」

「あるいはトーチカで殺されかけた姉のものかもしれない。あるいは、」


 長谷川は一呼吸おいて言葉を継ぐ、


「もしくは犯人か。少女を殺して返り血を浴びた、それか返り討ちにあって逃走中か。どうする黒井」


 どれを信用するかで、判断は百八十度変わる。もし妹ならば、すでに手遅れだから無視するべし。姉ならば、迅速に駆けつけて、応急処置するべき。だが、犯人なら、不用意に近づくべきではない。

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