第29話 越境
懐中電灯は、深海魚の目のごとく、暗闇を操作する。白地の海底は、永遠と滑らかに続いており、生命の気配はない。ここは月の光すらも届かぬ夜の底。旅館でもらったカイロはもう冷たくなっている。
「雪、止んでるな」
長谷川は塗りつぶされた空を見上げた。旅館を出た時には、すでに降雪はなかったようだ。
宿から、田舎道を歩き続けて二十五分。ついに例の柵が見えてきた。この山との境界に沿って歩くと、聖域の看板を見つける。看板は、照らされると、白く発光するようだった。ここからさらに西、聖域内部への抜け穴がある。彼らは足を止めずに目的地を目指した。
「子供、嫌いなのか」
長谷川の、雪の子に対する扱いが雑なのが、気になった。
「いいや。別にそうでもないな」
「怯えてた」
「誰が」
「旅館に置いてきた子供だ。乱暴だったぜ」
彼女は両手をしまい込むように、腕を組んだ。
「思い当たることがある。私の親は教育熱心で、幼いころから、詰め込み教育だった。それで、教育とやらはひどくはなかったが、やや強引なやり方で、机にひもで固定されたりしたものだ。神経質だったから、子供的奔放さに、まいってしまっていたのだろう。手をあげられたこともある」
「虐待じゃないか」
「虐待ではない。虐待といえるほどではなかった。お前が考えるほど、悲惨ではない。あれは矯正だ。私が心底そう思うのだから、この一件について部外者であるお前は、否定のしようがない」
話者は、その話の間、目を合わせようとしなかった。黒井は悲しくなった。長谷川には感情的、主観的といった心の防衛機構が備わっていない。彼女は、自分ですらも、自身の味方ではないのである。
「同情されるのが嫌いなのか」
「勘違いするな。決して不幸ではなかったのだ。おかげで、良い大学にいけたしな。世の中には、もっと悲劇がある。それにくらべれば、端数にすべき問題だ」
「不幸の深さは関係ない。致命的なのは、幸福じゃないということさ。幸福ではない、という切り口ならば、すべての不幸は平等なんだ」
彼女は、己に働きかけようとする彼に、なされるがままにしておいた。大切にされていることが、うれしいというのは、彼女にとって意外な発見だった。
「お前は、幸せか」
「今回の件と、妹の一件の犯人が捕まるまでは、幸福になれない」
「なら、犯人が捕まれば、幸せになれるのか」
黒井は、どうだろう、と考える。神宮寺が逮捕されたからといって、失われた生活へ帰還するわけでなし。その向こうにあるのは、妹のいない日常のみ。しかし、彼との決着がつかねば、そこにも進めない。
そうこう、考えているうちに、『聖域』の入り口にやってきた。
しゃがみこんで、靴にスパイクを装備する。柵に開いた、小さな抜け穴。ここから先は、彼らの領域だ。雪と夜、禁域。普段立ち入ることのない、法と常識の機能しない、人間社会にある飛び地。ここから先は別世界だ。
「ここをくぐるのは、なぜだか、いつも緊張する」
背後で長谷川が云った。鉄網と藪の狭間の土地である。
藪のトンネルは、なんだか童話の導入のようだ。行って帰ってくる童話には、帰れなくなる不安が漂う。漏斗の裏側、木々の模様は、竹かごを連想させた。
「俺もだよ」
境を越えて、雪の森といのは幻想的だ。干ばつされているため、木々の感覚はそろっており、はっきりとした色彩は油絵じみている。
二人は緩やかな斜面を登りはじめた。ここを登り詰めた平地に、トーチカが鎮座している。そこに、死んでしまった少女の姉がいるらしい。
「生きているだろうか」
黒井は疑問を口にした。疑問すら、吐くなり白くなる、この寒さである。
「奴らは双子だと言っていたな。同様の条件が死んでいるのだから、息絶えていても不思議はない」
「奇跡に期待しよう」
旅館の幽霊はどうしているだろうか。あの少女は、姉の無事を願って、震えているだろうか。
「おい、足跡だ。足跡がある」
彼は雪に足を取られないよう大股で、痕跡へといそいだ。
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