第16話逃亡

第三艦隊参謀長イラリオンが後退する敵艦隊の中でみつけたのは、取り残される重巡宙艦だった。その右舷前方は大きくえぐれている。

「あの艦はなんだ」

 イラリオンは電測員に問うた。彼は特に威嚇したつもりはなかったが、聞かれた側は萎縮して上ずった調子で返答した。

「は、艦艇データによりますと敵旗艦ヘルメースです」

「なんだと、早く言わんか。すぐに撃沈せよ」

今度は明らかな怒気が含まれていた。敵の旗艦が手負いで目の前にいる。これを千載一遇の好機といわずなんというのか。味方の愚鈍さに苛立ちを覚えた。水星軍は明らかに劣勢だが、崩壊にはいたっていない。イラリオンはそれをひとえにボリスの采配のせいであると考えていた。士官大学校の同期であるボリスの手腕を彼は誰より認めているつもりだった。まさに将器というべき男である。下級生からは人望に厚く、上級生からも可愛がられていた。自分とは対極にいる彼に劣等感を覚えなかったといえばウソになる。とかく孤立しがちな彼は、実績を出し続けることでしか自分の居場所を得ることができなかった。みんなから常に尊重され、必要とされるボリスの存在によって彼はこの世の理不尽さを知ったのだ。当のボリスは険のある彼にすら理解を示し、ことあるごとにかばっていた。それすら自分が社交的な能力において不具者であるという事実を突きつけられるようで苛立たしかった。しかし彼は当然そのような私的な理由のみで命令を下したわけではない。強力な指揮官を失えば、軍は瓦解する。犀利なイラリオンはこのあからさまな好機に不自然さも覚えたが、敵旗艦が損傷を受けていることによって一応の説明はつく。推進力が減退し、逃げ遅れたらしい。イラリオンは休憩中のメンデレーエフ中将に報告もせず、追撃するように命じた。彼らだけではない。地球側の全軍の耳目が手負いのヘルメースに釘付けになっていた。あるものは純粋な功名心から、あるものは叛乱の首魁に対する憎悪から、猛然と砲火を浴びせた。ヘルメースは退却する水星軍の後尾にあって、逃走をはじめた。イラリオンはこの時点でボリスになんらかの秘策があることを看破した。しかし彼さえ戦死してしまえば、区々たる罠などなんの意味ももたない。小細工など踏みつぶしてくれよう。逃げるヘルメースの操艦は巧みだった。無数の光芒をよけつつ、全速力で太陽を目指した。イラリオンは艦内の温度が上がるのもおかまいなしだった。彼は感情的になっている自分の存在を自覚した。認めたくないが、ボリス・エフレーモフという名には良い意味にせよ悪い意味にせよ特別な響きがある。自分自身の手で仕留めたいと痛烈に望んだ。旗艦以外の水星軍の艦艇は次々に天頂方向に逃れていく。落ち延びていくのだろう。しかし地球側にとっては、そんなものはおかまいなしだった。旗艦さえ沈めてしまえば、残党狩りなどいつでもできる。艦内の温度は八〇度に到達した。いつの間にかヘルメースの他に軽巡宙艦七隻しか眼前にいない。ついに追い詰めた。イラリオンは大粒の汗をかきながら、会心の笑みを浮かべた。しかしそれも一瞬だった。電測員がどもりながら声を張り上げた。

「後背に敵艦隊、艦艇数およそ六〇隻」

 イラリオンは初の体験をした。なにが起こったのかわからなかったのである。



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