後編

「ちょっと……」

 背丈の半分程度の大きさの漆黒の球体が宙に浮いている。〈夢嘘〉という〈神術〉だ。他神が操る〈神術〉を夢によって複製する効果がある。形成している要素が夢なので、言ってしまえばただの幻覚の一種ではあるのだが、これが思いの外使える。少なくとも戦闘系の神としても名高い殺神を拘束するくらいには。

 因みに、今この〈夢嘘〉の基になっているのは最高位神の一柱たる闇神が操る〈闇籠〉という拘束系〈神術〉である。

「こんな物に閉じ込めて、一体どういうつもり! 闇神の〈神術〉まで出してくるなんて、一体何企んでるのよ。信じられない! 出しなさあーい!」

 中からけたたましい叫び声が聞こえてくる。その声に眠神はぜえぜえと息を吐きながら怒鳴り返した。

「喧しい! 他人の気持ちも知らないで。暫くそこに閉じ込められてろ!」

「だーせーっ!」

 一つ大きく深呼吸をすると、眠神は周囲を見渡した。

 洞窟内は神族同士の戦闘によって、景色が随分と様変わりしてしまっていた。

 硬い筈の岩肌はぼろぼろに崩れ、大きな穴が幾つも開いている。粉塵と瓦礫に覆われた道の上に千切れた蔓草が転がっているのを見た眠神は、急速に己が身体から血の気が引いていくのを感じた。

(ネカメフィスは大丈夫だろうか? それに――)

「……!」

 振り返ると、そこには見たくないものが転がっていた。

 羽を広げ空中に留まっていた眠神は急いで、そこまで降りていく。そして、襤褸切れの様になった地上人の女を抱き上げた。身に纏った衣が毒々しい赤に染め上げられていった。

 地上人の身体は余りに脆い。他の種族にさえ耐えるのが厳しい環境下で、彼等が無事でいられる訳がない。

「すまない。もっと上手くやれば良かったのに……」

 そっと女の額を撫でると、彼女は苦しそうに呻いた。生気がその肉体から急速に失われていく。

(くそっ! どうすれば……)

 焦燥に駆られる眠神であったが、ふと赤い蔓草の切れ端が目に入り、顔を上げて辺りを見回す。

 そうして、背後の岩肌に一つだけ、生きた花がほんのりと淡い光を放っているのを見付けた。白い花弁の下からは、蔓草と同じ色をした子房が、風に煽られちらりちらりと姿を見せていた。

「これだ!」

 眠神はすぐさま花を毟り取る。

「この壁を這う蔓の花はネカメフィスの身体の一部だ。これを食せば、彼女の霊力が如何なる傷も病もたちどころに治してくれるだろう」

 口元に花を押し付けると、女は初めて反応を見せた。

「ネカ……?」

「そう、お前の求め続けた女神の名だよ」

「――きず……」

 濁った女の目にほんの少しだけ光が宿る。

(病も――)


 ――ごほっ。


 女は噎せ返り、薬となる花を吐き出してしまった。

「……あたし……」

 罅割れた紫色の唇から、嗄れた声が出てくる。

「あたし、この花食べてた。この洞窟に入ってから、お腹が空いた時、他に食べる物がなくて、ずっとこの花食べてたの。あの子に……持って返らなきゃいけなかったのに――」

 声はそこで途切れた。



 およそ半刻後――。

「うらあっ!」

 威勢の良い女神の声と大鎌を振るう風切り音がした。殺神が〈夢嘘〉を破ったのだ。

「ぜえぜえ……ほんと、いい加減にしなさいよ。文系気質のあんたが本気であたしに――あら?」

 眠神から反応が返ってこない。その理由はすぐに分かった。

「死んだの?」

 事もなげにそう言って、殺神は頬に手を添えた。



   ◇◇◇



 今にして思えば、ネカメフィスは本来なら居館に辿り着くまでに餓死する運命にあったあの地上人の女を哀れみ、我が身を与えてまで生き長らえさせていたのだ。彼女を閉じ込めたのも冥神の手から――或いは辛い現実から、彼女の心を守るためだったのだろう。結果として、不幸な結末となってしまったが。

 それでも、ネカメフィスは彼女を救おうとしたのだ。

「でも、それは《理》に背く行い。死は悲しいことですが、ネカメフィスが決して侵してはならない節理でもあります。冥神も殺神も正しく職務を全うしたに過ぎません。長きに渡って『神』と崇められることで思い上がり、そんなことも忘れてしまったのでしょうか、あの子は」

 後日、眠神の住まいを訪れた木神イスターシャは冷たくそう言い放った。何時も穏やかな彼女にしては、非常に珍しいことだ。

「ネカメフィスは今後どうなる?」

「向こう千年は私の監視下におきます。居館からも出てもらいましょう。千年後は……未定です」

「それは何処からの要請だ? 冥神からか。天帝に仕える高位神の貴女ともあろう者が、反体制派の走狗に成り下がるとは」

「口を慎みなさい、パストス。今回の件については理神が天帝にお話になり、その天帝から御下命があったのです」

「『表向きは』だろう?」

 木神は答えなかった。

 邪神認定は天帝や先代の神々の王であった光神が、自分達の体制に異を唱える神々に対して行ったこと。しかしながら、《冥》――「死」の要素を内包する《元素》は世界に重要な要素の一つである。だからこそ、天界は彼を完全には切れない。裏では繋がっているという噂もあった。

 だが、天帝を支える高位神の彼女が、表立ってその事実を口にすることはない。

「貴方には感謝しています。貴方が殺神をこの洞窟へと導いてくれたお陰で、問題解決に繋がったのですから。まあ、それも『表向きは』の話ですが」

「……」

「故に、貴方を咎める者は誰もいないでしょう。ですが、ごめんなさい。貴方には当分の間、私の眷族に近付いて頂きたくはありませんの。……ネカメフィスは、泣いていました」

 力を込めて発せられた語尾には憎しみが宿っていた。

 返す言葉が見つからない。無理もないことだと思った。友の落胆も木神の怒りも。

「無論、強制はしません。私個人からの、只の『お願い』です」

「高位神にそう言われて逆らえる者は少ないと思うがな」

「そうですか。では、そのように」

 突き放すようにそう吐き捨てるとと、木神は踵を返し、別れの挨拶もないまま立ち去っていた。



   ◇◇◇



 ――貴方が殺神をこの洞窟へと導いてくれたお陰で、問題解決に繋がったのですから。


 木神の去った後、彼は壁に凭れ掛り卓上に置かれていた酒杯を呷った。

(もし、私があの場にいなければ、いらぬお節介を焼かなければ、あの女はもう少しだけでも長く生きられたのだろうか?)

 だが、首を横に振る。

「ふっ、下らない。今更考えてどうなる」

「ふっ、下らない。今更今更~。なーんだ、怒ってるのかと思って心配しちゃったじゃない。阿呆らし――」

「失せろ。そして未来永劫、私に近付くな」

 今一番聞きたくない声だ。空気の読めない女――殺神リリャッタ。それとも、態とやっているのだろうか。

「えー、折角来てあげたのにー。お土産持って」

 満面の笑みを浮かべて、殺神は手に持っていた包みを掲げた。

「お前また!」

「あはははは!」

 陰鬱な空気が漂っていた宮殿に無邪気な女神の笑い声が木霊した。



 そうして、眠神は祈りを捧げる。

 ――願わくばその眠りの安らかならんことを、と。

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眠る花 壷家つほ @tsubonoie

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