中編

 黒い岩肌に赤い蔓草が這っている。その蔓草の所々に咲いた白い花は淡い光を放ち、洞窟内をうっすらと照らし出していた。

 その幻想的な光景は、神々の世界から遠い地上人達が非現実的な妄想を抱くのに十分過ぎるほどの根拠となったに違いない。――つまり、「この洞窟の奥には神が住んでいる」と。

 花の灯火の光を反射し、きらきらと虹色に輝く薄羽を羽ばたかせて、洞窟の出口を目指す眠神は、その美しい景色を複雑な面持ちで眺めていた。ネカメフィスには悪意などなく、ただ単純にこの地が気に入って住み着いているのかもしれないが、危うい真似をしていると思った。彼女は結果的に神族を騙っているのだから。

 蔓草に触れれば、ネカメフィスの精気の流れを感じることが出来た。こうして、洞窟内には彼女によって空間封鎖の〈結界〉が施されているのだ。神族である眠神には破るに容易い〈術〉であるが、地上人にとってはそうではないだろう。

 洞窟の真ん中辺りで眠神は、長い間さ迷い続けて骨が浮き出る程痩せこけ、着衣も身体もぼろぼろに汚れ、擦り切れた地上人の女と擦れ違った。彼は思わず振り返った。

(私の姿が見えていないのか?)

 女は明らかに地上人の者とは違う眠神の姿を気にも留めず、一心不乱に先を目指していた。どうやら、彼がそこにいることすら気付いていないようだった。

(盲目と言う訳ではないようだし、灯りもあるから見えぬ筈はあるまいが……。哀れ、気が触れたか)

 胸の内に不快な痛みが込み上げてくる。眠神は拳を握り締め、瞼を閉じた。

(ともかく、子供の方も手遅れとなる前に何とかしてやらねばな)

 そうして再び目を開いた眠神は、真っ直ぐ洞窟の出口を目指し飛び去っていった。



   ◇◇◇



 涼しい風が背中から静かにそよいでくる。その風は乾いていて、ほんの少し死の香りがした。どこかで戦があったのだろう。

(何ということだ)

 つい先頃知った事実についての感想だ。切り立った崖の上で、眠神は項垂れていた。

 すると突然、足元の地面から赤い蔓草が数本伸び上がり、腕に巻き付いた。

「ネカメフィス」

 呻く様に眠神は彼女の名を呼んだ。

『だから、話を聞けと言うたであろう』

 頭の中に大きな溜息が一つ聞こえ、続いて彼女の、女性にしては低めの声が響いてきた。

『分かったか? そなたが彼の者を救わんとすれども、既に手遅れ。女が館の庭先にやってきた時には、既に病の子供は死に果て、それより数年ああして門前をさ迷い歩いておる。嘗ての伴侶も女はとうに亡き者と思い、今では新しき妻との間に子まで成しておるわ』

 そう、眠神が先程あの地上人の女の故郷で見た光景がまさにそれであった。寄り添うように置かれた母子の墓石と幸せそうな家族。夫の一家は村の人々に祝福され、皆母子のことは過去のことと忘れ去りかけていた。

(それでは何とも報われぬではないか、あの者は。如何に世界に疎まれし地上人相手とは言え、ネカメフィスも惨いことをしたものだ)

 彼の足許より遥か下方に森が見える。森の中には彼女の村があった。眠神は村の方角を睨み続けていた。

 だから、その者がすぐ側に迫り来るまで彼は気付かなかった。村の方に意識を取られ過ぎて、神気にすら気付かなかった。

 突如、上方から強風が叩き付ける。眠神の長い髪がばさばさと音を立ててはためいた。

「……っ!」

「はあい。ご機嫌いかが、陰気な眠神さん? 明るい日差しの下に出るのは、大層恐ろしかったのではなくて?」

 聞き覚えのある声がした。そして、鼻を突くような死臭――。

 身の丈の倍近くはあるだろう大鎌に乗って宙を舞い、死者の魂と死精を従えた女神――殺神リリャッタ。死者の国を支配する冥神に仕え、魂を狩り地上へと誘う役割を負った神の一柱だ。

(ちっ、面倒なのが来おったわ!)

 彼女の端末でもある蔓草を通じてその気配を悟ったネカメフィスは、眠神から密かに蔓草を離し地面に潜らせた。

「ふふ、貴方も戦の匂いに魅かれて来たの? あ、それお裾分けね」

 言われて気が付いた。足許には腐りかけた人の腕が転がっていた。彼女は人族や精霊をも喰らう邪神であったことを思い出し、眠神は青褪めた。

「何度言ったか知らないが、私は人族は食わんからな。お前も、冥神の目を盗んで勝手に摘み食いするんじゃない。仕事だろうが」

「やーね、向こうだって知ってるわよ。知ってて何も言わないの。……ってか、それじゃあ何で神族の貴方が地上に出て来てるのよ」

「お前には関係ない」

「……あっそ」

 眠神の非礼とも取れる態度に、殺神は一拍沈黙した。――が。

「っしゃあ! それじゃあ地上に出てきたついでに、ちょいとそこらで派手に人間狩りやっていくかあ!」

「ちょっと、知り合いに会いにきただけだ!」

 性格上本当にやりかねない女神なので、流石に眠神も慌ててそう引き止めたのだった。



   ◇◇◇



「土地神?」

 表情豊かな女神は見るからに意外そうな顔をして、口元に手を当ててみせた。

 殺神の空飛ぶ大鎌に同乗させてもらった眠神は、彼女の背中の向こうで頷いた。

「正確には神族ではなく木精だがな。古くからこの地上界に根付いていて、昨今では地元住民に『神』として崇められている。名は然程知られていないが、かなりの実力者だよ」

「でしょうね」

 大鎌はびゅうびゅうと風音を立ててマトラ洞窟の中を突っ切っていく。眠神の飛行速度よりも遥かに速い。

「どういう意味だ?」

 眠神は訝しげに眉を顰め、殺神の顔を覗き見ようとした。しかし、彼女はずっと前方を向いたままでその表情は窺えない。窺えないが、恐らく彼女は何時も通り人を食ったような笑顔を浮かべているのだろう。声色を聞く感じではそうだった。

 嫌な予感がした。

「地上に出る前、ついでに頼まれたことがあってね、冥神に。『《理》に反した意志によって、死ぬべき定めにありながらも未だ現世に留まり続けている哀れな魂を、冥界へと正しく導いてやってほしい』って、あの死人みたいな青っちろい顔で凄まれてさあ。で、どうやらそれを仕組んでいる奴がこの辺りにいるらしいのよね。多分、その木精が犯人でしょ。そりゃ、ある程度の実力者じゃなけりゃ、高位神に逆らおうなんて思い付きもしないでしょうよ。神族だってやらないわ」

 いともあっさりと、殺神の真意が判明してしまう。本当に何でもないように彼女はその台詞を口にした。

 ネカメフィスを紹介するよう強要して、この洞窟へ道案内させたのは、興味本位からではなく彼女を断罪する為だったのだと眠神は理解した。

 羽を広げ、彼は大鎌から飛び退いた。気付いた殺神は慌てて大鎌の進行を止め、振り返った。そして、あからさまに不快そうな顔をする。

「何よお」

「悪いが、友を売る気はないぞ」

「はあ? ちゃんと話聞いてなかったの?」

 殺神は肩を怒らせた。

「その木精はその者の主神である木神が裁くんじゃないの? 多分、命数管理をしてる理神や命神からも木神に話が行くと思うから。私が刈り取るのは死亡予定者の命。つまり、あれよ!」

 大鎌の柄を掴む手を上げて指を差すのが億劫なのか、殺神は足の指先で下方を指した。眠神も釣られてその指の指し示す先を見た。

 ずっと話し込んでいて気が付かなかったが、彼等は既に洞窟の真ん中辺りまで到達していたようだ。そして、視線の先にいたのは――。

「リリャッタ!」

 眠神は叫ぶ。

 殺神は反射的に大鎌を構え、振り上げた。

「――っ!」


 ――どんっ!


 洞窟全体を揺らすような轟音が響き、蔓草を通じて様子を窺っていたネカメフィスは祈るように手を組んで宙を見上げた。

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